実を結ぶ者
エゼキエル47:1−12
預言者エゼキエルは、南ユダ王国末期に活躍した預言者だ。罪を重ねるユダ王国に対して神の裁きを語り、神の裁きが下された後、豊かな回復のメッセージを語った。今日開かれている箇所も、今日の私たちに対して神が語る回復の預言だ。
まず、水が神殿の敷居の下から流れて出ていたとある(1節)。神のもとから流れ出る水とは、新約の光で見るなら、キリストを通して与えられる救いのことだ。キリストは、私たちにいのちの水を飲ませてくださる(ヨハ4:13,14, 7:37,38)。私たちは、罪のために神から離れ、魂が干からびて、滅びる存在だった。そんな私たちを滅びから救うために、キリストは神から遣わされ、私たちのもとに来られた。十字架にかかって死なれ、死を破ってよみがえられたことによって、私たちのための泉が開かれた(ゼカ13:1)。渇く者は誰でも、キリストのもとに来て飲むようにと招かれている(黙22:17b)。キリストのもとで自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。キリストという泉からいのちの水を飲み、永遠のいのちの希望に生きる生き方を始めることができる。
さて、エゼキエルの前で水が測られ、その水を渡るように言われる。すると、その度に水が深くなっていき、ついには渡ることのできない川になる(3-5節)。水を測り、水を渡るとは、キリストの救いを忘れず、絶えず感謝し、救われた者にふさわしく歩むということだ。救いを忘れ、ないがしろにするところに、神の祝福はない(エレ2:13)。しかし、救われた者が、いただいた救いに固く立って生きていくなら、救いは深くなり、豊かになり、川となって流れる。
しかし、川はその流れがなくなるなら、よどみ、濁る(11節)。キリストの救いをいただいた者はやがて必ず、自らの内によどみ、濁っている実態があることに気が付く。罪の性質、肉の姿だ。外側をそれらしく取り繕い、振る舞っているが、その実、悪臭を放つ醜い心が潜んでいる。神を愛していると言いながら、世を慕い、自分に最大の愛情を注いでいる。神を信じていると言いながら、自分の力により頼んでいる。神に従うと言いながら、自分の腹に従っている。神を喜ばせると言いながら、自分の満足を一番にしている。このような肉を野放しにし、神の目を欺いて生き続けるなら、その行き着く先は滅びでしかない(申29:18-24)。塩しか取れない不毛の地のような末路だ(エレ17:5,6, 詩107:33,34)。私たちが自分の汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、神は真実をもって取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが自分の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、我が内に生きて働かれるキリストを通して、神に喜ばれる川を流れさせることができる(詩46:4,5)。キリストを通して神に全き信仰をささげ、神から豊かな祝福を注いでいただくことができる(12節, エレ17:7,8)。
キリストと共に生きる私たちの生き方は、神に喜んでいただける御霊の実だ(ガラ5:22,23a)。神は、そのような私たちを通して大きな栄光を現してくださる(12節, エレ17:9,10)。私たちの存在が周囲に潤いと癒しを与え、キリストの救いが証されていく(9節)。
私たちもこのような実を結ぶ者となりたい。自らが今どんな姿か、どんな生き方をしているかに光を当てていただきたい。そして、砕かれて神の前に出ていき、実を結ぶ生き方へと導いていただきたい。





