礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.01.25

主は心を見る

1サムエル16:1-13

 今日開かれているのは、ダビデが王として選ばれるときの場面だ。初代の王サウルが神から退けられ、ダビデが次の王に選ばれた。預言者サムエルが神から語られた通り、神がご覧になるのは、その人の見た目ではなく、心だ(7節)。ダビデが純粋に神を信じ、神に全てを委ねる心であることに、神は目を留めておられた(17:37a)。


 この点において、サウルは決定的に異なっていた。彼は、まさに風貌の良さにおいて、群を抜いた人物だった(9:2)。もちろん、神が彼を初代の王として選ばれたのは、彼の謙虚な心をご覧になったからだった(10:27)。だが、彼の心にたかぶりが起こり、わきまえのない行動となって表に出る(13章)。自分の目に映った不利な状況に翻弄され、神に従うことよりも自分の勝手な考えに従うことを優先させたのだ(13:11,12)。しかも、サムエルからそれを指摘されたにも関わらず、彼は悔い改めることをしなかった。


 さらに彼は、全て滅ぼせという神の命令に背いた(15章)。肉の目で判断し、自分が得する、好ましいものを残した(15:9)。そして、ここでも罪を指摘するサムエルの前に、頑なな態度をとり続けた(15:19-21)。神は、そんな彼に対して、ご自分が喜ぶのは、へりくだって聞き従う心だとお応えになり、彼の王位を退けることを決定された(15:22,23)。肉の目と自分の考えに執着したサウルの末路だった。


 サウルと対照的に、ダビデはまさに心を神に向け続けた人物だった。彼とてやはり、度々目に映る状況に左右され、失敗もした。最も大きな出来事は、バテ・シェバとの姦淫、そして、彼女の夫の謀殺だった(2サム11)。しかし、彼がサウルと異なっていたのは、その罪が示されたとき、頑なな態度をとることなく、即座に罪を悔い改め、砕かれた心で神の前に出たことだ(2サム12:13,詩51:3,4,16,17)。


 私たちはかつて、風貌、格好、体裁といった外側ばかり繕い、魂が神から離れ、罪のために滅びる者だった。そんな私たちのもとに、キリストは神から遣わされ、十字架と復活による救いを成し遂げてくださった。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(ヨハ3:16)。心をご覧になる神の前に正しく生きる道を歩み始める。


 こうして救われた者はやがて必ず、自分の内側に罪の性質があることに気が付く。神を愛しているかのように見せかけて、実は世を愛し、罪を慕い、自分に最大の愛情を注いでいる。神を信じていると言いながら、実は世にあるものに信頼を置き、自分の力に寄り頼んでいる。神に従っているように取り繕っているものの、実は世に従い、自分の都合、考え、基準に従っている。サウルが陥ったところと何ら変わらない肉の実態が、自分の中にもある。この肉を抱え持ったままでは、私たちはやはり滅ぼされる。私たちがなすべきことは、ダビデのように、砕かれた心で神の前に出ることだ。私たちがそうするなら、神は真実をもって私たちを取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に自らの肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、内におられるキリストを通して、新しい心を持つ者としていただき、神の御心に沿った生き方をする者となる(ロマ12:2)。


 神は私たちの心を見ておられる(7節)。どのような心で歩んでいるのか、ご自分に向かって心を全うするかどうかを見ておられる(2歴16:9a口語)。私たちもまた、自分の心が神の前にどうかを見て、砕かれて神の前に出たい。