礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.02.01

生きることはキリスト

ピリピ1:12-30

 “喜びの書簡”と呼ばれる本書は、パウロが投獄という喜べない状況の中で書いた。軟禁状態とはいえ、制限された自由の中で、精神的・肉体的な苦痛を強いられた。しかし、彼はキリストによる喜びを味わっていた。


 私たちは、些細な事で不平・不満をもらす。順風満帆のときは喜ぶが、逆風が吹いてくると愚痴が出る。パウロが、決して喜べない状況の中で喜べたのは、彼が特別な人だったからではない。関心がいつも福音の前進にあったからだ(12節)。彼は、十字架と復活のキリストが宣べ伝えられていれば満足だった(18節)。これが福音に生きている聖徒の姿だ。


 パウロの最大の願いは、自分の身によってキリス卜があがめられることだった(20節)。自分の名が知られても素知らぬ顔、辱められても意に介さない、そういうことは全く眼中になかった。とにかく、キリストの御名が崇められることだけを願った。生きるのも死ぬのも主のためと思った。なんと輝ける生涯か。私たちもこういう生き方をしたい。自分の生き方、死に方を通して、主の名が崇められればすばらしい。


 どうしたらそういう生き方ができるか。秘訣は21節だ。「生きることはキリスト」とは文法的に妙だ。詳訳聖書では「私にとって、生きることはキリストであり〈彼のいのちが私のうちにあり〉…」とある。「生くるはキリスト」(文語)とは、「キリストわが内にありて生くるなり」(ガラ2:20文語)ということだ。


 キリストの十字架に二重の意味がある。わが罪のための十字架と、我も共に付けられた十字架だ。過去の罪は、悔い改めと十字架を信じる信仰によって赦され、罪からの救いをいただくことができる。救いの確信がないクリスチャンは、認罪と悔い改めを徹底させるべきだ。救われた魂は、やがて我が内の汚れに気がつく。救われたのにまだ妬み深く、我がままで、傲慢で、すぐに自己憐憫・自己正当化に陥る。そのような古き人が十字架につけられるなら、そこへ主が内住される (ガラ5:24、2:19,20)。信仰によるキリストとの合体だ(3:10,11)。


 キリストの十字架の贖いは、私たちをここまでする。「生きることはキリスト」とは、この恵みをいただくことだ。この恵みを得たら、生き方が変わる。どのように変わるか。


 ①主のために生きる者になりたいと願う者になる。21節は元訳で「我が生けるはキリストの為、また死ぬるもわが益なり」だ。私を愛して、私のためにご自分をお捨てになった神の子キリストが私の内にお住みになるのだから、その主のために全身全霊を献げたい、主の為にのみ生きたいと願うのは当然だ(2コリ5:15)。


 ②喜んで主の御心に従って生きる者になる。「わが神よ 私はみこころを行うことを喜びとします…」(詩40:8)とは、イエスご自身のことだ。主は終始、御心に喜んで従われた。私たちもそういう歩みをさせていただくことができる。


 ③キリストのために苦しみをも喜んで受ける者になる。パウロは、キリストのための苦難を賜物と受けとめた(29節)。


 「生きることはキリスト」とは、なんと輝かしい生き方か。標準は高いが、私たち救われた者全てが歩むことができる生き方だ。十字架の深い贖いを求めよう。聖潔の恵みを求めよう。そして喜んで主に従い、苦難をも厭わず、主の栄光のためにキリストを生きる者とならせていただこう。


 今は終わりの時代だ。キリストの再臨は近い。恵みを求めて行こうとすると、サタンは妨害に出て来る。信仰によってサタンを退け、確かに恵みをいただいて、主の御前に立ちたい。