主が良くしてくださったことを忘れるな
詩篇103:1−22
詩篇103篇は、標題に「ダビデによる」とあり、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」で始まり(1節)、同じ句で閉じられている(22節)。ダビデはまさに、神を賛美しながら生きた人物だった。神に愛され、祝福され、彼もまた神を愛し、神を信じて生きた。けれども、彼の人生が全て順風満帆だったわけでは決してない。先代の王サウルに妬まれ、命を狙われ、逃げ隠れしなければならない辛い時期を味わった(1サム18-30章)。王になってからも、確執や権力争いが続き(2サム2-4章)、他国からの攻撃を受け(2サム5-9章)、我が子に裏切られ(2サム15-18章)、その子を助けようとする努力も空しく、惨殺されてしまう(2サム19章)。このような数々の苦難に遭いながらも、彼は決して主への愛を失わず、信仰を捨てることをしなかった。むしろ、主に感謝をささげ、主をほめたたえた(詩69:16-20, 29-33)。
新約の時代を生かされている私たちも、キリストによって感謝と賛美の歩みを送ることができる。まずキリストから罪の赦しと滅びからの救いをいただくところから始まる(3,4節)。私たちは神から離れ、罪の中を神に背いて生き、神の怒りを受けて滅びなくてはならない者だった(詩51:3-5, エペ2:1,2)。しかし、神は、私たちが滅びるのを惜しんでくださり、私たちのもとにひとり子キリストを遣わしてくださった(8,9節, エペ2:4,5)。キリストは十字架にかかって死なれ、死を破ってよみがえってくださった。私たちの身代わりに罪と咎を負って神の怒りを受けて罰せられ、神から捨てられてくださった(10節, マタ27:46)。私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。キリストの救いをいただいた者は、罪をはるか遠くに離された歩み(12節, イザ38:17)、罪を赦された者としての歩みを始めることができる。
こうしてキリストの救いをいただいた者はやがて必ず、自らの内に罪の性質があることに気が付く。神を愛していると言いながら、世を慕い、神よりも自分に愛を注いでいる。神を信じると言いながら、自分の主義主張、自分の考えに寄り頼んでいる。神に従うと言いながら、己が腹に従っている。そのような肉の本性だ。神の愛を知り、キリストの救いに与って、主を恐れる者としての歩みを始めていながら(11,13,17節)、主の御心を痛め、主を悲しませる古い性質を温存し続けるなら、私たちはやはり滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、自らの肉の姿を認め、砕かれて神の前に出ていくことだ。私たちがそうするなら、神は真実をもって取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に己をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、主を恐れる者、主の御心の通りに生きる者となることができる(17,18節)。キリストが内に王座を堅く立て、内に幕屋を張って住んでくださる(19節, 黙7:13-17)。
キリストの救いをいただき、キリストに内に生きていただく者は、心の底から神に感謝し、神を賛美することができる。全てのことを「主が良くしてくださったこと」(2節)として感謝して受け取り、さらに主を見上げて進んでいくことができる。もし主の恵みを忘れるとするなら、自らの魂の状態を点検し、主の前に取り扱っていただくべきときだ。私たちは主からいただいた恵みを心に留め、感謝と賛美の歩みを送りたい。
今年主からいただいた恵みを感謝し、新しい年を迎えたい。





