主の時に委ねる者
ヨハネ2:1-11
本日は、イエス・キリストの公生涯における初期の伝道における、カナの婚礼での奇跡から教えられたい。
この祝福の鍵は、①イエスがそこにおられたこと、②ぶどう酒がなくなったこと、③イエスが神の時に委ねておられたことだ。
①イエスがそこにおられたこと
もし、イエスがそこにおられなかったとしたら、祝福はなかった。私たちの人生にイエスはおられるか。救い主イエスと出会い、その救いに与っているか。私たちは、罪のために神から遠く離れ、そのままでは滅びゆくものだった。そんな私たちを神は憐れみ、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わし、救いの道を備えてくださった。キリストが十字架にかかって死なれ、復活されたことによって、救いの道は完成した。どんな人でも、キリストと出会い、キリストのもとで自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。自分の人生の中にキリストをお迎えし、キリストがおられる歩みを始めることができる(黙3:20)。
②ぶどう酒がなくなったこと
もし、ぶどう酒がなくならなかったとしたら、祝福はなかった。せっかくキリストがおられても、脇に押しやり、この世や自分という手持ちのぶどう酒で事足れりとしているなら、祝福の源となる極上のぶどう酒、キリストの恵みを受け取ることはできない。どれだけ表をそれらしく取り繕っていても、主は私たちの心に何があるかを知っておられる(24,25節)。その人の内側が、手持ちのぶどう酒に酔いしれている実態を、主の目から隠すことはできない。
この世のぶどう酒、自分のぶどう酒とは何か。世の楽しみ、世の満足、自分の腹を優先させ、神に背く肉だ。この肉を抱えている限り、豊かな祝福には与れないばかりか、遂にはその肉のために滅ぼされてしまう。しかし、私たちが自らの肉の姿を認め、空しくなって主の前に出て、「ぶどう酒がありません」(3節)と申し上げるなら、神は真実をもって導き、私たちに十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、極上のぶどう酒のような豊かな祝福に満たされて歩む者となる。
③イエスが神の時に委ねておられたこと
もし、イエスが神の時に委ねておられなかったとしたら、これもまた祝福はなかった。ぶどう酒がなくなったというマリアの切実な報告に対するイエスの対応は、一見すると冷淡なようにもとれる(4節)。しかし、そうではなく、イエスは徹底して神の時に委ねておられたのだ(7:6a,8, マタ26:18, 13:1, 17:1)。父なる神にどこまでも従い、全てを委ねておられた(5:19, 8:29)。キリストを内にいただく者も、主の時に委ねて生きる。すべての時にかなって美しく働かれる主に、全信頼をおささげして生きる(伝3:11a)。そのように主の時に委ねる者は、再臨の主に会う備えをして生きる。主が来られるその日は、もうすぐそこまで近づいている(ヤコ5:8)。
私たちは、主の時に委ねる者となっているか。自らの歩みを省みて、砕かれて主の前に出ていきたい。





