あなたがたは生き返る
エゼキエル37:1-14
エゼキエル書は、預言者エゼキエルが、捕囚の地バビロンにおいて神からの預言と黙示を記した書巻だ。彼は、国を失い絶望するイスラエルの民に、回復を預言し、悔い改めて神に立ち返るよう薦めた。それは、今を生きる私たちに向けて神が語るメッセージでもある。
今日の箇所の冒頭、彼は神から不思議な幻を見せられる。平地を埋め尽くす枯れた骨だ(1,2節)。聖書において、骨は人や国の力、特に神ではなく、自分たちの力により頼む人の姿を象徴する。だがここでは枯れた骨とあることから、イスラエルの民が、そうした人の力に行き詰まり、絶望していることが表されている(11節)。私たちも、神ではなく、自分の力により頼んで生きるなら、虚しい骨の存在でしかない(申8:17)。どんなに時代を謳歌しているようであっても、結局は枯れて絶望してしまう。神を知らないからだ。
私たちは本来、神によって創造された。神がご自身のかたちとして創り、息を入れて生きる者とされた(創1:27, 2:7)。ところが罪が入り、神のかたちは壊されてしまった。神の息も失われ、私たちは罪のために滅びる存在となった。私たちは、神から離れ、神を知らず、この地上を虚しく生きるだけの存在となった(創3:17-19)。まさに、枯れた骨だ。しかし、私たちが滅びるのを惜しんでくださった神は、憐れみによって救いの道を備えてくださった。御子キリストの十字架と復活による救いの道だ(ヨハ3:16)。
枯れた骨を前に、神がエゼキエルに命じたことは、骨に向かって預言して、回復の約束を伝えることだった(4-6節)。すると、なんと、散らばっていた骨が、ガラガラと音を立ててつながった(7節)。キリストの救いのメッセージによって心を刺され、自分の罪が示された人の姿だ(使2:37)。罪を示された者が、罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる(使2:38)。つながった骨は、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆って、人の形になった(8節a)。このように救いは、壊されていた神のかたちを回復させ、永遠の命の希望を持つ生き方へと人を変える。だが、その中に息がなかった(8節b)。まだ神から取り扱われる必要があるからだ。
救われた私たちはやがて必ず、自らの内にまだ罪の性質があることに気づく。神に信頼せず己が腹により頼み、己が腹を優先させる姿だ。見た目はいかにもクリスチャンらしく体裁を整えているかもしれない。けれども、自らの内側を見るなら、神の前に死んだ者であることがわかるはずだ(黙3:1)。この肉を野放しにしている限り、私たちの最後はやはり滅びだ。人は神の息によらなければ、生きる者にはならない(9節)。私たちが、自らの姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。神の息が吹き入れられ(10節)、私たちは内に生きて働かれるキリストを通して新しく生きる者となる(詩104:30, 36:25-27, 2コリ5:17)。
「あなたがたは、わたしが主であることを知る」(13節)は、鍵となる一句だ。キリストの救いをいただき、キリストに内に生きていただく者は、神を知る者として神に喜ばれる歩みを送る(エレ31:31-34)。新しいイスラエルとして、神の御心を行い、神の御前を生きる(14節)。
「あなたがたは生き返る」(14節)と、神は私たちにも語られる。自らの姿を神の前に省み、砕かれて神の前に出ていきたい。