礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.06.15

イエスの名によって立ち上がれ

使徒3:1-10

 今日は、ペンテコステに続く、弟子たちによって行われた最初の奇跡の場面が開かれている。聖霊をいただいた弟子たちは、主が約束された通り力を受け(1:8)、神のみわざを大胆に現していく者となった。彼らが受けた力とは、イエスの名による力だった。また、人に癒しと回復を与え、滅びから救い、信仰に立たせ、信仰に歩ませる力だった。これが最もわかりやすく現されたのが、今日の箇所だ。


 まず、足の不自由な人の姿から見たい(2節)。「生まれつき」という表現は、直訳すると“彼の母の胎内から”となる。私たちは、生まれながら罪の存在、神の御怒りを受けて滅びなくてはならない存在だった(詩51:5, エペ2:3)。本来は神に創造され、神と共に歩む存在だった。しかし、罪が入り、神との関係は壊された私たちは、神から遠く離れ、そのままでは確実に滅びてしまう者となった(ロマ6:23a)。そんな私たちを憐れんでくださった神は、キリストによる救いの道を備えてくださった。キリストが十字架で死に、死からよみがえられたことによって完成した救いの道だ。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。ちょうど、足の不自由な人が、ペテロとヨハネに目を注いだように(4,5節)、私たちも、キリストを通して注がれる神の愛によりすがるなら、恵みによって救いが与えられる(エペ2:4,5)。このキリストの救いは、私たちを罪と滅びの中から立ち上がらせ、永遠の命の約束によって歩み出させる(ロマ6:23b)。ペテロが宣言した「イエス・キリストの名」(6節)は、人を立ち上がらせ、新しい歩みへと踏み出させる力なのだ(詩23:3, 1コリ6:11b)。


 こうしてキリストの救いをいただき、新しい道を歩み始めた者はやがて必ず、自分の中にまだ罪の性質があることに気がつく。神を愛し、神に従うと言いながら、己を愛し、己が腹に従っている実態、神を一番にすると言いながら、神よりも己を一番にする実態だ。この罪の性質、肉を残したままでは、私たちは、キリストによって立たせていただいた者として歩み続けていくことはできず、その最後はやはり滅びだ。私たちが自らの汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に己をつけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。6節と7節の“立ち上がる”は、人が眠ったり、座り込んだり、死んだ状態から起き上がることを表す言葉だ。キリストが内に臨み、生きて働いてくださる人は、キリストによって立ち上がることができる。魂が眠り込み、座り込み、果ては死んでいたような信仰が、キリストによって目覚め、立ち上がり、生き生きと生きていく者となる。


 今日の箇所をきっかけにして、ペテロとヨハネは捕えられる。だが、彼らは決して怖気づくことなく、イエスの名によってこそ、人は救われると大胆に語った(4:12)。足を癒していただいた人も、二人と共に立ち、キリストの証人としての使命を果たした(4:14)。イエスの名によって信仰に堅く立った人たちの姿だ(1コリ16:13, コロ1:23a)。


 イエスの名によって立ち上がれと、今日、神は私たちにも語られる。私たちはまだ罪と滅びの中に座り込んだままか。あるいは、肉のゆえに信仰が眠り込んだり、座り込んだり、死んだ状態になっているか。キリストの救いをいただき、さらに、キリストを内にいただき、イエスの名によって立ち上がりたい。