主の訓練
へブル12:1-14
今日の箇所は、主からの信仰の訓練について語られているところだ。主からの訓練によって信仰を強めていくためには、私たちが自らの魂を主の前に整えていただく必要がある。それが、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨て」(1節)るというポイントだ。
まず、私たちは「一切の重荷」を捨てなければならない。キリストによる罪からの救いをいただくことだ。私たちは、罪の重荷を負い、神から遠く離れて生きていた。この罪の重荷がのしかかっている限り、私たちは滅びなければならない。だが、私たちは自分で罪の重荷を降ろすことはできない。キリストのもとに行くしかない。キリストのもとで私たちは重荷を降ろし、罪の解決をいただくことができる(マタ11:28)。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、罪の解決と救いの道が完成した。どんな罪を犯した者であっても、キリストのもとに来て罪を悔い改めるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。そして、平安と希望と喜びをもって信仰の走路を走り始めることができる。
こうしてキリストの救いをいただき、信仰の道を走り始めた者は必ず、その道を走り続けることの難しさに気がつく。それが、もう一つの捨てるべきもの「まとわりつく罪」(1節)を取り扱っていただくときだ。走り続けていこうとする私たちの足に、罪がまとわりついてくる。罪の誘惑が私たちに容赦なく襲い掛かり、私たちが救われた者、キリストを信じる者として生きることを妨げてくる。実のところ、そうした誘惑にさらされている自分の内側にこそ、罪の性質、肉があり、それが自らの足を重くしていることにも気がつく(箴5:21, 22)。キリストを愛し、キリストを信じていると言いながら、実は自分を愛し、自分を信じている。神の御心に従うと言いながら、実は自分の思いや都合を最優先させている。このような肉をそのままにしている限り、私たちは信仰の走路を走り続けることはできず、最後には滅びる者となる。私たちがなすべきことは、罪を捨て、肉を始末することだ。私たちが、意志と信仰をもって罪を投げ捨て(詳訳聖書)、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。その十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内住のキリストの信仰によって生きる者となり(ガラ2:20b)、キリストと共に信仰の走路を走り続けることができる。
このようにして、私たちの信仰を始め、信仰を完成させてくださるキリストから、私たちは目を離さずにいたい(2節)。主は、私たちが信仰の走路を走り続けることができるように、また、キリストをいつも見続けていることができるようにと、私たちに信仰の訓練を与えてくださる(5節b)。私たちは主が与えてくださる訓練を軽んじたり拒んだりすることのないようにしたい。また、叱られることを嫌わないようにしたい(箴3:11,12)。主が私たちを傷つけるのは、その傷を包んで強くするため、また、主が私たちを打ち砕くのは、私たちを癒して回復させ、堅く立たせるためだからだ(ヨブ5:17,18)。そのようにして、主は、私たちへの限りない愛のゆえに(6節)、そして、私たちの信仰を強め、ご自分の聖さにあずからせるという主の御心のゆえに(10節)、訓練し、取り扱い、成長させてくださる。厳しい訓練の後に、私たちは主が与えてくださった全てのものを感謝し、その結果として義という平安の実が結ばれたことを自らの内に見出す(11節)。
主の訓練の究極的なゴールは、私たちが聖なる者となって主を見ることだ(14節)。いつも主を目の前に拝し、主を目の当たりにして生きていく生き方を、私たちも与えていただきたい(詩16:8)。
主の訓練は、どの人にも備えられている。軽んじることなく、拒むことなく、訓練していただき、主の前に整えられた者となりたい。