礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.05.25

みことばを確かなものとされる主

マルコ16:9-20

 今年も昇天日が近づいている。キリストが復活された後、天に昇られたことは、福音書や使徒の働きが記している。今日は、その中のマルコの福音書が開かれている。


 9-11節には、マグダラのマリアに復活の主が現れたことが記されているが(ルカ24:1-11, ヨハ20:1-18)、そのことを伝えられた弟子たちは信じなかった。続く12,13節には、二人の弟子たちに復活の主が現れたことが記されているが(ルカ24:13-35)、弟子たちはやはり信じようとしなかった。そんな弟子たちに、復活の主が直接会ってくださった(14節)。そして、福音宣教の命令を与えられた(15節)。キリストが福音をお始めになり(1:1)、宣べ伝えていかれた(1:14,15,38)。弟子の任命も宣教のためだった(3:14,15, 6:12,13)。この福音宣教は、キリストの再臨にも大きく関わる(13:10)。だから、天に昇られる直前、最後の命令として福音を伝えるように弟子たちに語られたのだ。


 「すべての造られた者」(15節)とあるが、私たちは本来神に造られ、神の豊かな祝福のうちを歩むものだった。しかし、罪が入り、私たちは神から遠く離れてしまった。神の祝福は損なわれ、私たちは、もはや自分が神に造られたものであることも知らず、罪の中を自分勝手に振る舞って生きるものとなった。そして、その行き着くところは、滅びだ。そんな私たちが滅びるのを惜しまれた神は、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わされた。キリストの十字架と復活によって、私たちに救いの道を備えるためだった。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(ヨハ3:16)。これが福音だ。


 この福音を聞いて信じる者は救われ、信じない者は罪のために滅びる(16節)。ちょうど弟子たちが主の復活を聞いても信じなかったように、福音を聞いても心を頑なにし、信じようとしないならば、その結末は滅びだ。だが、心を開き、罪を悔い改めて信じるなら、その人のうちに福音は信仰の実を結ばせ、信仰を育てていく(ロマ1:17)。17節に語られている、信じる人々に伴うしるしはどれも、信仰がなくては成し得ないことだ。キリストの救いに与った者が、さらに信仰が育てられていくとき、神はその人を通して豊かなしるしを現される。


 しかし、その信仰の成長を阻むものがある。救われた後、なおも内に残る肉だ。信仰を育てるどころか、不信仰に陥り、神を侮り、またもや罪の中に生きようとする本性だ。表向きは信仰深そうに振る舞っても、心の底では神よりも自分を信じている実態だ。この肉を残している限り、私たちは福音にふさわしく生きることはできない。私たちが自らの姿を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に肉をつけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24,2:19b,20a)。私たちは、内におられるキリストを通して、信仰によって生きる者となる(ガラ2:20b)。


 弟子たちは、ペンテコステを経て、主から命じられた通り、「出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた」(20節)。主は、そのような彼らと共に働かれ、彼らが行う信仰のわざをしるしとして、みことばを確かなものとされた。私たちも、内に働かれる主と共に、出て行って福音を宣べ伝えることができる。そして、私たちの言葉、態度、行い、全てを通して、信仰が表され、主は、私たちを通して、みことばを確かなものとしてくださる(コロ2:7, 2コリ1:21, 1コリ1:5-8)。


 私たちは福音に与っているか。福音によって信仰の歩みを始めているか。さらに、神がみことばを確かなものとしてくださる生き方をしているか。神の前に出て、自らの姿を省みたい。