礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.11.05

主の軍の将として

ヨシュア5:13-15

モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民は、神の約束の地カナンを目指した。彼らはヨシュアに率いられ、信仰によってヨルダンを渡ってカナンに入った。カナンでは今までとは全く違う新しい生活が始まった。まず彼らは、神との契約のしるしである割礼を受け、神の所有になった(5:2)。また、カナンの地の産物を食べるようになった(12節)。

しかし、イスラエルの民には、難攻不落の要塞エリコを攻略しなければならないという大問題があった。常識的には、城壁に囲まれたその町を、貧弱な武装しかしていない民が攻略するのは不可能だ。今まで信仰に立ってやってきたヨシュアも、思い悩み、恐れた(13節)。

彼が目を上げると、抜き身の剣を持って向かって立つ人がいた(13節)。その人は彼に「わたしは主の軍の将として、今、来た」と言った。その人は主ご自身だった。ヨシュアたちをエジプトから贖い出し、荒野を導き、ヨルダンを渡らせ給うた主だった。ヨシュアの目には、この御方しか見えなくなった。問題は厳然としてあり、状況は変わらないが、主の軍の将が立ち給う。この御方で十分だった。

ひれ伏す彼に、主は「足の履き物を脱げ」と言われた。履き物を脱ぐことは権利の譲渡を意味する(ルツ4:7)。“自分はこうやってきた、これを経験してきた、これからはこうする”などという自分の誇りや計画、希望の一切を主の手に明け渡すことだ。

彼は従い、全能の主に自分を明け渡した。その後、戦いの方法が示された(6:3-5)。それは常識では考えられない不思議な方法だった。しかし、主は「見よ。わたしはエリコ…を、あなたの手に渡した」(6:2)と断言された。敵はすでに主の手中にあるというのだ。

ヨシュアと民は信仰をもって出陣した。みな信仰に立って、言われたとおり、一日に一回、黙って城の周囲を回った。それだけで城が落ちると考えるのは非常識的、非理性的だ。しかし、信仰のごとく成った。エリコは陥落した。神の方法と、民の信仰による大勝利だった。神の御業は、信じるところにこそ現される。神は全能のお方だが、こちらの全き信仰が求められる(創17:1)。

私たちの前にも、立ちはだかるエリコのように、生活上の困難な問題、心の悩みなどが山積する。しかし、最大のエリコは自分自身、自らの罪の性質だ。救われたのにまだ神に喜ばれないのは、結局自分が一番可愛いからだ。

真に救われた魂は、そのような自己の醜さに必ず突き当たる。こんなはずではなかったと思い悩む。そこから、ヨシュアのように、一人主の前に出るのだ。そして目を上げ、十字架の主を仰ぐのだ。そこに古き自分がキリストと共に十字架につけられている事実を、信仰をもって受けとめ、虚しくなるなら、そこにキリストが臨まれる。そこから勝利の歩みが始まる。喜んで主に従う生涯、主に喜ばれる生き方が始まる。

その後、疑いが生じたり、不安になったりすることがあるかもしれないが、そのたびに十字架を仰げばよい。何度でも仰げばよい。主は必ず立ち上がらせてくださる。

いつまでも不信仰・不従順の荒野の旅を続け、主を悲しませるのではなく、信仰に立とう。主の軍の将は私たちの前に立っていてくださる。この主の前に履き物を脱いで、主に明け渡そう。イエスは主として内住してくださる。この方こそ聖霊なる神だ。

自我のエリコが崩れたなら、その他のどんな強固なエリコも崩れる。私たちがなすべきことは目を上げて主を仰ぐことだ(5:13)。主の軍の将に明け渡し、信じて待ち望もう。