礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.03.01

一粒の麦として

ヨハネ12:20-43

イエスは我らのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた。その十字架の死を目前に控えたころ、ギリシア人たちがイエスを訪問した。過越の祭で礼拝するためにエルサレムに来た異邦人の彼らは、「君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願う」(21節文語)と、イエスを王と認めて謁見を求めたのだ。主は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(23節)と言われた。ユダヤ人たちはイエスを十字架に追いやり、その結果、救いはまず異邦人から始められることになった。ギリシア人たちの訪問を受けて、主は十字架の時がいよいよ近づいたことを痛感されたのだ。

そういう中で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…」(24節)と語られた。麦が実を結ぶためには、種である麦が地に落ちなければならない。落ちただけでは駄目だ。死ななければならない。死ぬとは、麦たることをやめ、芽を出すための供給源に徹することだ。そうするなら根を張り、芽を出し、穂を付け、豊かな実を結ぶようになる。

イエスは、ご自分の死をさして一粒の麦と言われたのだ。イエスは地に落ちて、十字架の死を遂げられた。「わたしが地上から上げられるとき…」(32節)とは、ご自分の死に方を自覚しておられた言葉だ。イエスの死は、十字架の上で遂げられるのでなければならなかった。イエスの十字架の血によらなければ、我らの救いはあり得なかったのだ(ヘブ9:22)。

我らは、主の十字架によって、罪と滅びからの救いをいただくことができる。罪を悔い改め、十字架を信じるだけで、誰にでも与えられる恵みだ。救われたら、主を愛し主に仕えたいと願う。

イエスは「わたしに仕えるというのなら…」(26節)と言われた。主を愛し主に仕えるには、主に従わなければならない。イエスがそうされた。いつも父なる神に信頼して歩まれた主は、ゲッセマネの園で、神から捨てられるという杯が取り除かれることを願いつつも、「御心がなるように」と、父の御旨に従われた。主は、神のあり方を捨てられないとは考えず、己れを捨てて御心に屈服し、十字架の死にまで徹底して従われた(ピリピ2:6-8)。

我らも、神の御心に従順に従って主に仕えていきたい。これは、自分に死ななければできないことだ。一粒の麦とは、イエスだけではなく我ら自身のことだ。主は我らのために十字架に死なれた。同時に、我らのわがまま、強情な自我をも共に十字架につけてくださった。神の御心に従うより自分の思いのままに生きたいという自己の強情な姿を嫌だ、それで生きる者にはなりたくないと思って、古い自分が十字架に死ぬというところを通って、キリス卜内住の恵みをいただきたい。そしてキリストが内に住み給うという信仰で、真に主に仕える者となりたい。

イエスのように神に仕えたい。主がいかに一粒の麦として己に死に、御心に従われたかに倣いたい。高い標準だが、主の約束だ。主が真実をもって約束を果してくださる。こちらはただ信じて従うだけだ。恵みにより信仰によって主に仕える者とならせていただこう。そして、栄光を見る者とならせていただこう。