礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.06.09

愛に満ちておられる神

イザヤ43:1-7

我らの神はどういう神だろうか。

1.創造の神

43章は「ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方」(1節)という呼びかけで始まる。神によって創造された我らへの、親しみを込めた呼びかけだ。

聖書の開口一番の言葉は、「はじめに神が天と地を創造された」だ(創世記1:1)。宇宙は偶発的な出来事によって出来たのではなく、神が御言葉によって創造された(同1:3)。天地を創造された神は、最後に人間を創造された。

神は、我らを神のかたちに創造された(同1:27,2:7)。これは、我らが神との豊かな交わりをもって生きる者として創造されているということだ。神が我らに語りかけられると、我らが喜んで応答することができ、我らが神に祈れば、神がその祈りに応え給うという、親しい交わりの中に、真のいのちをもって生きる存在として我らは造られているのだ。それは、我らがいつも主を賛美し、主の栄光を現すためだ(7節)。

 

2.贖いの神

「わたしがあなたを贖ったからだ」(1節)とあるが、贖うとは、代価を払って買い取るという意味だ。神のかたちに創造された人間は、悪魔に誘惑されて木の実を食べ、神に背いた。神との交わりは失われてしまった。これが罪の始まりだった。罪とは悪事を働くことよりも以前の、神に背を向けた心の状態のことであり、我ら生まれながらの姿だ。我らは、神の前に一人の例外もなく罪人であり(ローマ3:10)、そのままでは滅びなければならない(同6:23a)。

しかし、憐みに富む神は、我らのために救いの道を開き給うた。イエス・キリストをこの世に遣わし、我らの身代わりに十字架におかけになったのだ。罪のない神の子キリストは、神から捨てられるようにして十字架で死なれた(マタイ27:46)。神はそこまでして我らを愛し給うたのだ(ヨハネ3:16、ローマ5:8、Ⅰヨハネ3:16)。

神は、罪の奴隷であった我らのために、御子キリストの血潮という代価を払われた。この贖いの十字架を信じる者に、罪の赦しが与えられる。ただ神の恵みにより、キリストを信じる信仰によって与えられる救いだ(ローマ3:24)。こうして救われた我らは、「あなたは、わたしのもの」(1節)とあるように、贖われた神の民となるのだ。

 

3.守ってくださる神

そのように、御子の血で贖い給うた我らを、神は責任をもって守られる。我らは人生を歩む中で、厳しい試練にあうことがある。濁流の中を過ぎなければならないことやことや、燃え盛る炎の中を歩かなければならないことこともある(2節)。絶望の淵に立たされることもある。しかし真実な神は、我らを守り給う。

神は我らに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(4節)と語られる。我らは初めから高価で尊かったのではない。むしろ罪を犯して神の御旨を痛める者だった。しかし、キリストの十字架の贖いのゆえに、神の目に高価で尊い者とされたのだ。そのような我らを、神は全存在をかけて守り支え給う。

神の愛は真実な愛だ(エレミヤ31:3)。我らが真実をもって信じ従おうとするなら、神はなお一層の愛をもって導き給う。この愛に満ちておられる神に信頼し、御言葉に従っていこう。

今日はペンテコステ記念日だ(使徒2:1-4)。聖霊を頂いた人々は、力を受け、神の愛に押し出されて福音宣教に出て行った。聖霊は愛の炎だ。我らを愛し給うた神は、我らを聖霊に満たし、神の愛によって生きる者、またイエスを証しする者となし給う。聖霊の火を求めていこう。