礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.10.14

キリストを生きる

ピリピ1:12-30

パウロの獄中書簡の一つで、彼がローマの獄中からピリピの教会の信徒に宛てて書いたものだ。獄中という逆境にありながら、どこにも悲壮感は感じられない。むしろ「喜ぶ」「喜び」という言葉が多用されている。パウロが、逆境にあっても“喜びの使信”を送ることができたのはなぜか。

彼はまず、自分の身に起こった投獄という出来事が、福音の前進に役立ったことを感謝している(12節)。なぜなら、①キリストのゆえの投獄であることが、親衛隊全員に知られ、証しになっているからであり(13節)、②教会の信徒が今まで以上に信仰によって大胆に御言葉を宣べ伝えるようになったからであり(14節)、③彼を妬む者たちが、党派心からであるにせよ、熱心にキリストを宣べ伝えるようになったからだ(15-18節)。彼の懐の深さが伺える。

彼の願いは、生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストがあがめられることだった(20節)。さらに彼は、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(21節)と言う。これは彼の本心だった。

しかし、この言葉には違和感がある。「生きることは」の後には、普通名詞は続かない。だが、ここでは単なる名詞ではなく、固有名詞で、しかも「キリスト」だ。「生きることはキリスト」とは、どういうことか。

それは、キリストが何のためにこの世に来られたかに深く関わる。キリストは、永遠の初めからおられた神の独り子だったが(ヨハ1:1)、人となってこの世に来られた(同14a)。主は罪のないお方だったが(1ペテ2:22)、十字架にかかって死なれた。それは、神に対して罪を犯し、滅びるばかりの我らを贖うための身代わりの死だった(同24)。我らが罪を悔い改め、キリストの十字架が自分のためと信じるなら、誰でも罪が赦され、滅びから免れさせられる。まずこの救いを確かに頂きたい。

罪から救われた魂は、神に喜ばれるように生きたいと願う。ところが現実は、どこまでも自分を喜ばせたい己があることに気がつく。“み心が成るように”と祈りながら、実は自分の思い通りになることを願う己れ、“主に従います”と言いながら、自分の都合の良い範囲内、自分が損をしない程度にと勝手な条件をつける己れがいる。これが汚れた肉の姿だ。汚れを抱えたままでは、神は決して喜ばれない。神は聖いお方だからだ。

神が我らに求め給うは、我らが聖い者になることだ(1ペテ1:16、レビ11:44,45、同19:2)。「われ聖なれば汝らも聖なるべし」とは神の至上命令だ。けれども、我らは自分で自分を聖くすることはできない。だからキリストが十字架にかかられた。

自分の汚れた肉、古き人を意志と信仰もって十字架につける(ガラ5:24)、そこにキリストが聖霊となって内に臨まれ、信仰によってキリストの命で生きる者になる(同2:20)。ここから「生きることはキリスト」という生き方が始まるのだ。

キリストが内に生き給うとの信仰によって、私がキリストを生きるのだ。主がどこまでも自分を低くして、神のみ心だけに喜んで従われたように(詩40:8、ヨハ5:19、同8:29)。

キリストを生きるとは、この世から見れば、採算の合わない、格好悪い生き方かもしれない。しかし、主が喜び給う生き方だ。「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」(27節)とある。キリストの十字架と復活の福音にあずかった者らしく生きよ、ということだ。それは苦難が伴う道だろう。キリストのゆえの苦難、福音のゆえの苦しみを味わう道だろう。しかし、キリストのための苦難なら恵み、賜物として受けとめることができる(29節)。なんと高尚なる生涯か。

パウロだからそのような生き方ができたのではない。我ら贖われた者すべてに可能な生き方だ。キリストを生きる生涯を求めていこう。