礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.11.29

まことの光として

ヨハネ1:1-13

待降節(アドべント)に入る。クリスマスが今や世界中で祝われるわけは、キリストの降誕が我らの生き方に直接かかわるからだ。キリストとはどういう御方か。

 

1.初めからおられた御方(1節)

キリストは初めからおられた。キリストは神ご自身であり(2節)、神と共に天地創造の業に当たられた(3節)。その御方が人となってこの世に来られた(14節)。永遠の神が、限りある人間となって来られた。それがクリスマスだ。

 

2.光として来られた御方(9節)

光は暗い部分を照らす。イエスは我らの心の暗い部分、罪を照らされる。罪とは神からの離反だ。元来人は神のかたちに創造されたのに、神の御言葉に背き、神から離れた。キリストを受け入れないのはそのためだ。神は我らを愛し給うたのに、我らは拒否した。キリストを十字架に付けたのは我らだ。キリストの光は我らに罪を示す。

さらにキリストの光は、罪の赦しを与える。イエスは罪を犯した女に「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハ8:11)と言われた。彼女の罪を赦されたのだ。キリストは今も、罪を犯した我らに、十字架の上から罪の赦しの恵みを与え給う。

 

3.神の子どもとなる特権を与える御方(12節)

義なる神は、我らを罪あるままでは受け入れられない。神が我らを我が子として受け入れるためには、我らの内に巣食う罪(ロマ7:15,17)が始末されなければならない。

我らは、救われてもなお神に逆らう自我、神に対する敵対性で満ちている。すぐに自己正当化と自己憐憫に陥る。こうと思ったら、なかなか己を握って手離さない。結局は自分が一番可愛いのだ。

こういう自分の姿を認め、自分の汚れを真に厭い、離れたいと思うとき、聖めていただきたいという渇きが起こされる。自分で自分を聖めることはできない。だからキリストが十字架にかかられた。その十字架に意志と信仰をもって自我を付け(ガラ5:24、2:20)、むなしくなって待ち望んだ魂に、キリストが臨み給う。そして、神のご性質にあずかる者にし給う(2ペテ1:4)。そのようにしていただいた者が神の子どもだ。

神の子どもにされるという特権は、一人の例外もなく我らに与えられる。「すべての人を照らすそのまことの光」だからだ。ただ「この方を受け入れた人々」「その名を信じた人々」とあるように、信じること、素直に受け入れることが求められる。

光が当たらないように、光に探られないようにとすることも、やろうと思えば出来る。光を感じているのに知らぬふりをすることも可能だ。しかし、我らがいつまでも頑ななら、ついに神は語られなくなる。光を光として受け入れる素直さがあれば、光は必ず届く。

 

イエスはまことの光として来られた。我らの魂を照らし、全き救いを与える御方として来られた。我らを罪から救うため、十字架の贖いを成し遂げるため、我らを神の子とするためだ。信じよう。必要なのは信仰だけだ。

クリスマスは御子を信じる決断をする時だ。信仰を確かめる時だ。我らも、まことの光を受け入れて、新しい生涯をはじめさせていただこう。