要石を据えられた者
1ペテロ2:1-10
ペテロの手紙第一は、各地に離散したクリスチャンに宛てて使徒ペテロが書き送った書簡だ。迫害や困難の中にある彼らの信仰を励ますことが目的だった。今を生きる私たちにとっても、この書簡は大きな励ましと導きになる。
本日の中心聖句は6節だ。「選ばれた石、尊い要石」とはキリストのことだ。では、「要石を据える」とはどういうことか。それは、私たち自身の中にキリストが据えられるということだ。
まず、キリストによる救いが根本だ。私たちはかつて罪の中をさまよい、滅びる者だった。神はそんな私たちを救うために、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。キリストの十字架と復活によって、私たちの救いの道は完成した。キリストの尊い血によって、私たちの罪は赦され、滅びからの救いが与えられる(1:18,19, エペ2:1-5)。「生きた、いつまでも残る、神のことば」であるキリストによって「新しく生まれた」者となる(1:23)。
こうしてキリストの救いによって新しく生まれた者は、主のいつくしみ深さを味わい知るようになる(3節)。主は、ご自分が救った者を真実と愛をもって導かれるからだ。この主のいつくしみ深さを味わう体験は、主を恐れる生き方へとつながる(詩34:8-10)。主を恐れる生き方とは、主に喜ばれない悪を捨て(1節, ヤコ1:21)、霊の乳、すなわち、主の御心を慕い求め、成長するということだ(2節, コロ1:10)。
しかし、救いをいただいた者にとって、この標準は鋭い光を投げかける。主のいつくしみ深さを味わい知りながら、主を恐れる生き方を送っているか。主に喜ばれない悪を捨てるどころか、後生大事に抱え持っているではないか。慕い求めているのは主の御心ではなく、己の腹の満足ではないか。このような肉を温存している限り、私たちは最後に滅ぼされてしまう(ヘブ6:4-6)。私たちがなすべきことは、「主のもとに来なさい」(4節)と招かれている通り、砕かれて主の前に出ていくことだ。私たちがそのようにするなら、神は私たちを真実をもって取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に己をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。
キリストに内に生きていただく者は、終わりの日に約束されている、天の資産を受け継ぐという大いなる救いに向かって、魂を成長させていくことができる(2節, 1:4,5)。それは、キリストを要の石とし、自らも生ける石として霊の家に築き上げていただく様子にも例えられている(5節, エペ2:20-22)。これが、「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司」(5節, 出19:6a, ロマ12:1)、キリストという「尊い要石を据え」られた者の姿だ(6節)。
キリストという要石を据えられた者の究極的な使命は、神の栄誉を告げ知らせることだ(9節, イザ43:21)。自らの姿、生き様、全身全霊を通して、神のすばらしさ、憐れみ深さ、救いの尊さを現していく。
私たちは刻々と深まる闇の中にあって、確実に近づく終わりに備え、主の前に出ていきたい。





