主の大いなる日は近い
ゼパニヤ1:1-18
本書が書かれた時代背景は、紀元前600年代、南ユダ王国ヨシヤ王の治世のことだ。先々代マナセ王、先代アモン王の悪政で暗い時代だった(2列王21:1-3,19-22)。偶像礼拝が横行し、祭司たちは形だけの礼拝を行い、人心は乱れた。そのような中で、ヨシヤは神殿修復工事の際に発見された律法に基づいて、改革運動を敢行した(同22:8,11-13)。彼は国内から偶像を一掃した(同23:3,25)。彼をそのような改革に駆り立てたのが、ゼパニヤの預言活動だった。
本書は大きく二分される。1-2章ではおもに裁きのメッセージ、3章では救いと回復のメッセージが語られている。神は、罪に対しては厳しく臨まれるが、悔い改めて神に立ち返ろうとする者は恵みをもって受け入れられる。
本日の個所は、神の前に傲慢で罪から離れようとしないユダの民への、神の厳しい処断のメッセージが語られているところだ。ゼパニヤは「主に従うことをやめた者ども…を断ち切る。」(6節)と語る。初めは主に従っていたのに、それを途中でやめた者への厳正な裁きの言葉だ。さらに彼は、「主の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。」と語る。主の大いなる日とは、直接的にはバビロン捕囚のことだ。実際、ユダ王国は、ヨシヤ王より数十年後の紀元前597年から578年の間に、4度にわたってバビロン捕囚の憂き目にあう。
「主の大いなる日は近い…」とは、今日の私たちへの神のメッセージだ。その大いなる日とは、終わりの時のキリストの再臨の日だ。
キリストは、神であられたが私たちと同じ人となってこの世に来られた。今から2000年前の「キリストの初臨」だ。私たち人間を罪と滅びから救うためだ。しかし人々はキリストを受け入れず、当時のユダヤ人指導者たちは罪なき神の御子を十字架につけた。けれどもキリストは墓の闇を打ち破って復活され、天に昇られた。キリストは今も、目に見えないお姿で生きておられる。やがて来るべき日に、キリストは目に見えるお姿で再臨される。それは、贖われた者たちを御国に迎えるためであり、またどこまでも不信仰を貫くこの世を裁くためだ。その再臨の日が近づいているのだ。
私たちは、その日に備えたい。まず罪の赦しを確かに頂きたい。罪を悔い改め、キリストの十字架を信じるなら、誰でも、どんな罪でも赦され、永遠のいのちの望み、また確信が聖霊の働きによって与えられる(ヨハ1:12,3:16)。
さらにキリストの救いは、罪の赦しのみか、一切の汚れ(自己中心、傲慢、強情、不従順…)を取り除き、神の御心に従順に従う魂に造り変えるという聖潔にまで至らせる。御言葉の光に照らされて己の姿が解らせられ、聖くなりたいと渇いて、御言葉に従っていけば、必ず十字架のもとに導かれる(ガラ5:24、2:19,20)。
キリスト内に生き給うというこの信仰に啓かれた魂は、キリストの再臨を待ち望む者とされる。いつキリストが来られても、しみも汚れもない魂として御前に立つことができる者とされるのだ(2ペテ3:14)。
その日は近づいている。不信仰であり続ける者にとっては恐るべき裁きの日だが、キリストの全き救いを受け取り、その恵みの中に生きる者にとっては、大いなる喜びと希望の日だ。キリストの再臨を心から待望する者とならせていただこう。





