礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.11.08

一緒に歩まれる主の心

 旧約聖書に記されている物語を、新約の光をもって読むとき、神のメッセージが浮かび上がる。ナアマンの記事もそうだ。


 ナアマンの体はツァラアトに冒されていた(1節)。聖書は、ツァラアトを、単なる医学的な病気というよりも、汚れや罪と結びついた現象として描く(レビ13:45,46)。私たちも、ツァラアトを患った人のように、罪で汚れた存在だった。そのままでは罪のために滅びる者だった。しかし、私たちが滅びるのを惜しまれた神は、キリストを私たちのもとに遣わし、罪を取り除き、汚れを清める道を備えてくださった。それがキリストの十字架と復活だった。


 ヨルダン川に身を浸したナアマンは、ツァラアトを患った身体が「元どおりに」なった(14節)。これは、自分の罪を悔い改めて神のもとに立ち返る者の姿を表しているが(ルカ15:17-20)、同時に、罪によって壊された神との関係の回復をも示している(コロ1:20-22)。罪を悔い改めて神のもとに立ち返り、神との関係を回復された者は、「幼子のからだのようにな」ったナアマンように新しく生まれた者となる(ヨハ3:3)。キリストが十字架で流された血によって私たちの魂は罪を洗い流され(使22:16,ヘブ10:22)、キリストが死からよみがえられたことによって、私たちは新しく生まれた者として永遠の命の希望に生きることができる(1ペテ1:3,ヨブ33:19-28)。


 こうして癒されたナアマンは、さらにエリシャに励まされ、心に平安が与えられる(19節)。救われた者は、キリストが与えてくださる平安を心に持って生きていく(ヨハ14:27)。平安をいただいたナアマンは、後を追いかけてきたゲハジに対して、平安をもって声をかける(21節)。一方のゲハジも平安をもって返答しているが(22節a)、これは平安を装った偽りの心だ(エゼ13:10)。このようにキリストの救いをいただいて、新生した者の姿を表しているナアマンとは対照的に、欲に目がくらみ(20節)、ツァラアトがその身にふりかかるゲハジ(27節)は、肉に生きて滅びを刈り取る者の姿を表している。


 キリストの救いをいただいた者はやがて必ず、自らの内側に潜む罪の性質に気が付く。ゲハジのように、救ってくださった神よりも、世にあるもの、肉欲を満たすものを求め、それに執着する実態。いかにもクリスチャンらしく上辺を取り繕っていても、内側には神に背き、逆らう心で満ちている実態。神の目をもごまかせるかのようにうそぶき、自分の内側から目を逸らせ続ける実態だ。このような肉の実態を放ったままでは、その肉のゆえに私たちは滅ぼされる。私たちがなすべきことは、自分の汚れた実態を認め、砕かれて神の前に出ることだ。そうするなら、神は十字架をさらに深く示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働かれる(ガラ5:24,2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、神に喜んでいただける歩みを送る者となる。


 ゲハジが贈り物を受け取っていたとき、彼と一緒に歩んでおられたのは主の心だった(26節)。ナアマンと一緒に歩まれ、ゲハジと一緒に歩まれた主の心は、今、私たちと一緒に歩んでおられる。そして、私たちがどのように歩んでいるかを見ておられる(2歴16:9a)。私たちは、自らの歩みを主の前で点検したい。