礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.10.25

塩の味

ルカ14:25-35

 本日のキーワードは、塩だ(34節)。塩には、様々な役割がある。料理などの日常生活で、また、人の健康維持でも、塩は不可欠だ。このような塩は、クリスチャンの比喩だと言われる。確かに、クリスチャンは「地の塩」(マタ5:13a)として世に遣わされ、不可欠な役割を担う。けれども、真に目を向けるべきは、その内実、塩気、つまり塩の味だ。この内実が疎かだったら、私たちは「地の塩」どころか、何の役にも立たず、ついには外に投げ捨てられる(35節)。


 塩の味は律法に遡る。神へのささげ物は塩で味をつけることが定められていた(レビ2:13, エゼ43:23,24)。さらには、神の前に焚かれる香にも塩気が必須だった(出30:34,35)。このように規定されていた塩味は、神が民を決して忘れず、その民も神を礼拝し、神の御心に生きるという、神との契約を表していた。


 神を知らず、罪の中を滅びに向かっていた私たち異邦人はかつて、この契約に縁のない者だった(エペ2:11,12)。しかし、キリストが神から遣わされ、十字架の上で血を流してくださったことにより、私たちは新しい契約につながる神に近い者とされた(エペ2:13)。キリストの十字架と復活によって私たちの救いが成し遂げられたからだ(ロマ11:25-27)。神は、キリストを通して、私たちに新しい契約に仕える資格と、塩で味つけられた新しい歩みを与えてくださった(2コリ3:6)。


 こうして救われた者はやがて必ず、罪の性質が自らの内にあることに気が付く。神に救われたと言いながら、神を信じず、神に従わない。なおも世を慕い、罪から離れようとしない。神を喜ばせることよりも、己が腹を満足させることを優先させている。塩で味つけられた者、新しい契約に仕える者には到底ふさわしくない実態だ。


 今日の箇所の直前には、披露宴のたとえ話が記されている(14:15-21)。披露宴に予め招かれていた客人たちは、自分の都合で出席を断った。披露宴の招待は約束事、契約だ。だが、彼らはその契約に「ふさわしくなかった」(マタ22:8)。肉のままで生きる者の姿はこのようなものだ。私たちも、この肉を温存させている限り、塩気を失った塩として外に投げ出され、滅ぼされてしまう(35節, 14:24)。私たちが、塩の味を保つために、契約にふさわしい者となるために必要なことは何か。それは、自らの肉を認め、砕かれて神の前に出ることだ。私たちが心からそのようにするなら、神は必ず真実をもって導き、十字架をさらに深く示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。内に生きて働かれるキリストによって、私たちの内で新しい契約が成就し、私たちは契約にふさわしい者となる(ヘブ8:8-12)。聖霊の「火によって塩気をつけられ」(マル9:49)、「地の塩」として神の栄光を現し(マタ5:13a)、神に喜んでいただける者となる。


 今日の箇所の前半で、自分の家族や自分のいのちを憎み、自分の十字架を負ってついて来る者が、真のイエスの弟子だと語られている (26, 27節)。内にキリストに生きていただく者は、キリストに最大の愛を注ぎ、神が私たちに与えてくださる重荷を感謝して担う者となる。神はこのような者を「地の塩」として祝福してくださる。


 パウロも、言葉が「塩味の効いたものであるように」と教える(コロ4:6)。だが、「自分自身のうちに塩気を保」たなければ(マル9:50b)、塩気は効かせられない。私たちの内側が変えられ、内側からキリストに生きていただいて初めて、言葉だけでなく、私たちから出る全てのものが神の御心にふさわしく整えられ、神の栄光につながる。


 私たちの歩みはどうか。私たちの塩の味は保たれているか。自らの姿に光を当てていただきたい。