礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2026.05.10

母の信仰

マタイ15:21-28

 本日の箇所は、母の信仰のあるべき姿を私たちに教えてくれる。


 イエスと弟子たちは、ツロとシドンの地方に退かれた(21節)。ツロは、旧約聖書の時代には海上貿易で繁栄した都市国家だ。彼らの傲慢さ、欲深さ、横柄さ故に、サタンになぞられて神の裁きが語られている(エゼ28:11-19)。新約聖書の時代、ユダヤ人たちは、ユダヤの一地方に成り果てたツロを、神に裁かれた悪の町として軽蔑していた。しかし、イエスの目は、救いを求める一人の女性に注がれていた。


 まず、彼女は異邦人だった(22節, マル7:26)。神の恵みに与ることはないと、ユダヤ人から見なされていた人たちだ。だが、彼女にはどうしてもイエスのもとに来る切実な理由があった。悪霊につかれて苦しむ娘の癒しだ。この彼女の切実な態度の中に、信仰の姿を見たい。


1. 「私をあわれんでください」と求めたこと
 癒しが必要なのは娘だ。けれども、母である自分に憐れみが注がれ、恵みに与ることができたら、娘は必ず癒されると彼女は信じていた。だから、「私をあわれんでください」(22節)、「私をお助けください」(25節)と求めた。自分自身に目が向けられなければ、信仰を働かすことも、救いの御業に与ることもできない(マル9:22b-24)。


2. どんな障害にもあきらめなかったこと
 熱心に叫び求める彼女に向けられたのは、弟子たちの冷遇(23節)と、イエスの黙殺(23節)、拒絶(24節)、侮辱(26節)だった。特に、彼女を犬に例えた侮辱は痛烈だった。だが、彼女はあきらめなかった。


3. 自分の醜さを認め、それでも信仰で求めたこと
 自分を犬同然とする扱いを受けてもなお、彼女はそれを当然とし、それでもなお憐れみを求めた(27節)。卑屈になっていたのではない。心底、自分が醜い者だと認識したのだ。そして、そんな者でも、最低限の恵みはいただけるはずだと信仰によって求めた。実は、イエスがご覧になっていたのは、この信仰だった。黙殺も拒絶も侮辱も、彼女が信仰に立つための取り扱いだった。イエスは、豊かな恵みを用意して娘を癒し、彼女を家に帰された(28節, マル7:29,30)。


 私たちも肉においては異邦人であり(エペ2:11,12)、神から遠く離れ、サタンの支配下で罪のために滅びるものだった。しかし、キリストが私たちのもとに来られ、十字架と復活の救いを成し遂げてくださった。誰でも自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。キリストのもとに来て救いを求め、「私をあわれんでください」と、信仰によって救いを求めるなら、キリストの血によって、神に近い者としてくださる(エペ2:13)。


 今日の場面の直前には、パリサイ人たちや律法学者たちの姿が描かれている(15:1-3)。彼らは、言い伝えという名目で規定を細かく定め、神がお与えになった律法を勝手に解釈し、自分たちは信仰深いと思い込んでいた。イエスは、そんな彼らの思い違いを鋭く指摘し、口先だけで敬虔そうに装う実態に光を当てられた(15:7-9, イザ29:13)。今日の場面に登場する母の姿との違いが歴然としている。


 このパリサイ人たちや律法学者たちの姿は、人ごとではない。キリストの救いをいただいた者は必ず、自らの内側にも彼らと同じ肉があることに気が付くからだ。この肉がある限り、私たちは滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、今日の母親のように自らの醜さを認め、砕かれて神の前に出ていくことだ。私たちがそうするなら、神は私たちを取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内住のキリストを通して、神の御心を悟り、神に喜ばれる歩みを送ることができる(ロマ12:1,2)。


 私たちの信仰はどうなっているか。今一度、光を当てられ、自らの姿を省みる機会としたい。