主の山で聖なる御前に立つ者
詩篇24:1-10
先週は、詩篇23篇から、キリストの救いをいただいた者が、神の豊かな導きと守りによって養われ、さらにキリストを内にいただいて神の臨在の中を歩む姿を教えていただいた。本日は、続く24篇から、主の御前に聖なる者として歩む姿を教えていただきたい。
まず、24篇は開口一番に創造主なる神への賛美がささげられている(1,2節)。主の御前を聖なる者として歩む土台は、神と自分を知ることだ。天地万物を最もよいものとして創られた神は、私たちを神のかたちとして創られた(創1:27)。神の息によって生き、神の御前を歩む存在だった(創2:7)。しかし、罪によって神のかたちは壊された。私たちは神の御顔を避けなければならない者となり(創3:8,9)、滅びる者となった(ロマ6:23a)。けれども、そんな私たちが滅びるのを惜しまれた神は、ひとり子キリストを私たちのもとに遣わしてくださった。キリストが、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちの救いの道が完成した。私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じることによって、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。罪のために壊された神のかたちが回復し、永遠のいのちの希望が与えられる(ヨハ3:16, ロマ6:23b)。
3-6節には、主の御前を歩む者の姿が描かれている。きよい手と澄んだ心で、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない者が、主の聖なる御前に立てる(4節)。ここで私たちは、自分の姿はどうかと問われなくてはならない。日々の生活において神のきよさを現しているか。純粋な神への愛と信仰が心に満ちているか。魂が神以外のものに向いていないか。人前を偽って心の中で神に背いていないか。救われた者はやがて必ず、これらの問いにYESと答えられない実態に気が付く。罪の根、肉があるからだ。生活がきよくない。心が澄んでいない。神ではなく虚しいものに目を向けている。内側が神に敵対する心で満ちている。こうした肉がある限り、私たちは主の聖なる御前に立てずに滅ぼされてしまう。
私たちがなすべきことは、自らの肉の姿を認め、汚れたものから離れ、砕かれて神の前に出ていくことだ(2コリ6:14-18)。私たちがそうするなら、神は真実をもって私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。手をきよくし、澄んだ心を満たし、たましいを神だけに向け、心からの誠実をもって、主の聖なる御前に立つ者となることができる。キリストを通して、絶えず神の御顔を慕い求める生涯を送る(6節, 詩40:16)。これが、義なるお方キリストを主から受け、このお方と共に生きる者の祝福だ(5節)。御名のゆえに私たちを義の道に導いてくださる主の導きが、ここに完成する(詩23:3)。
7-10節には、戦いに勝利をとって城に凱旋する王の姿に喩えて、内住のキリストと共に歩む者の勝利する姿が描かれている。サタンは、自分に残された時が近いことを知っているので、私たちが主の御前を歩むことを阻もうと、戦いを挑んでくる(黙12:12c)。しかし、キリストを内にいただいている者は、勝利をとることができ(ロマ8:37, 1ヨハ4:4)、勝利の凱旋に加えていただく(2コリ2:14)。
私たちは主の聖なる御前に立つ者とされているか。キリストの救いをいただき、さらにキリストに内に生きていただき、主の山で聖なる御前に立つ歩みを送りたい。





