礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.12.14

この方こそ主キリストです

ルカ2:8-20

 本日開かれているのは、羊飼いたちに御使いが現れキリストの降誕を告げるという、クリスマスストーリーの定番の箇所だ。だが、単なる定番やお馴染みで片付けてはならない。ここに込められている、神が私たちに伝えんとする重要なメッセージを受け取りたい。


 まず、御使いが羊飼いたちに告げた言葉に目を向けたい。「大きな喜び(原文では「大きな喜びの福音」)を告げ知らせます」と言われている(10節)。同じ表現が、博士来訪の場面(マタ2:10)、復活に関する場面(マタ28:8)、昇天に関する場面(ルカ24:52)、そして、罪人の悔い改めに関するイエスの言葉(ルカ15:7)に見られる。つまり、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえり、天に昇ることによって、人が罪を悔い改めて救われる道を開く、キリストはまさにこのためにお生まれになった救い主だ。これこそ、大きな喜びであり、福音そのものだ。


 さらに、御使いは、「あなたがたのために救い主が」生まれた(11節)、「あなたがたのためのしるし」がある(12節)と、”あなたがたのため”を強調している。今聞いている羊飼いたちだけのことではない。全ての人、私たち一人一人のことだ(テト2:11)。今日生まれた救い主は、私たち全ての人、私たち一人一人に及ぶ救いを成し遂げるお方だ。全ての人が救われることを望んでおられる神から遣わされ、やがて、全ての人の贖いの代価として、十字架にかかって救いを成し遂げるお方だ(1テモ2:4,6)。誰一人の例外なく全ての人は、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるだけで、この救いに与り、永遠のいのちを持つことができる(ヨハ3:16)。この救いに与った者は、御使いが「この方こそ主キリストです」と言ったように(11節)、”この方こそ、私を罪から救ってくださった私の主キリストです”と告白し、救われた者として歩み始めることができる。


 御使いの告げた言葉を聞いた羊飼いたちは、「急いで行って」赤ん坊を探し当てた(16節)。ここに彼らの信仰と従順の姿を見ることができる。福音が伝えられ、実を結ぶと、救いのわざが起こり、信仰が始まっていく(コロ1:6)。羊飼いたちの心の中にも、御使いの告げた福音は実を結んだ。だから、ぐずぐずせず、後回しにせず、今このときと急いだのだ。私たちにも福音は伝えられている。私たちのためにも「今日」という日が備えられている(ヘブ3:7,8)。


 私たちの心を頑なにし、神に従うことを鈍らせる要因は何か。救われた者がやがて必ず気が付くことになる、内に潜む罪の性質、肉だ。神を信じるよりも世と世にあるものを慕い、神に従うよりも己に従う罪の性質だ。「今日」という日が備えられ、信仰を成長させようとしてくださる神の手を払いのけ、罪に惑わされて心を頑なにさせる肉だ(ヘブ3:13)。私たちがこの肉を抱え持ったままでいる限り、私たちはやはり滅ぼされてしまう。私たちがなすべきことは、砕かれて神の前に出ていくことだ。そのようにするとき、神は私たちを真実をもって取り扱い、十字架を示してくださる。示された十字架に己をつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に生きて働かれるキリストを通して、神に従って生きることができる。”この方こそ、私の内におられる主キリストです”と証ししながら生きる。


 羊飼いたちは、全て御使いが告げた通りだったことを見て、神に礼拝と賛美をささげた(20節)。内にキリストに生きていただく者も、神に礼拝と賛美をささげながら歩む(詩95:6-8, ロマ12:1,2)。


 私たちは、どのような心で今のクリスマスを待ち望む期間を過ごしているか。クリスマスに当てられる光の前に出ていきたい。