礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.10.12

あなたの心を見守れ

箴言4:1-27

 箴言は、ダビデの子ソロモンが編纂したとされる。箴言全体は、格言集のような文体にはなっており、父が子に訓戒を授けるというスタイルが特徴だ。だが、その一つ一つの御言葉を読むと、神が私たちに教えてくださる真理が語られていることがわかる。私たちが、語られる神の言葉に耳を傾け、心にとどめるなら、知恵となって私たちの内に豊かな祝福の実を結ぶ。これが箴言のメッセージだ。


 「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ」(23節)が、光となって一際心を刺す。“見守る”は箴言の鍵語だ。“見守る”の意味することを、1節から9節の中から学びたい。まず、「得よ」(1節)とあるが、これは“知る”という意味の言葉だ。神を知り、自らの罪を知ることから全てが始まる。私たちは神を知らず、罪にまみれて生き、罪の中に滅びる存在だった。そんな私たちの目を神に向けさせ、罪と滅びから救うために、神はひとり子キリストを私たちのもとに遣わされた。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、私たちの救いの道が完成した。キリストを通して、私たちは神を知り、神を恐れる者となる(箴1:7)。


 「知恵の初めに、知恵を買え」(7節)とは、どういうことか。知恵はもらうものではなく、買うものなのだ。ただし、金は要らない(イザ55:1)。“買う”には、“もらう”よりも強い意志と所有権が伴う。“それを私にください”と求めることと、“それは確かに私のものです”と所有を確認することが、知恵の始まりなのだ。キリストの救いも同じだ。キリストを通して神を知った者は、自らの罪を知る。自らの罪を悔い改め、救っていただきたいとキリストにすがる者が、罪の赦しと滅びからの救いに与ることができる。“私は救われました”と、はっきりとキリストの救いを所有する者となる。


 こうして救われた者は、神の言葉を守って生きる生き方を始める。神の「命令を守って生き」る生き方(4節)、つまり、神が与えてくださる諭しを忘れず、そこからそれず(5節)、それを捨てない(6節)ことだ。これは、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」神を愛することだと言い換えることができる(マタ22:37, 6節)。ところが、現実はどうか。神の命令を守って生きていると言えるか(1ヨハ2:4)。ともすると、語られたことを忘れ、そこからそれ、果ては捨ててしまいたいとさえ思っている実態がないか。心といのちと知性を尽くして愛しているのは、神ではなく、自分ではないか。救われた者はやがて必ず、この実態に気が付く。罪の性質が内にある限り、私たちはやはり滅ぼされてしまう。


 「尊べ」(8節)は、道路を作るために土を盛って高くする、という語源の言葉だ。私たちも、肉がのさばった状態から脱するためには、道を整えてキリストを迎え入れる必要がある(イザ57:14,15, 62:10-12)。私たちが自らの肉を認め、砕かれて神の前に出て行くなら、十字架が示される。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、神の命令を守って生きることのできる者、心といのちと知性を尽くして神を愛することのできる者となる。神のことばを「抱きしめ」(8節)、「麗しい花の冠」、「輝かしい冠」(9節)を与えられた者として生きる。


 “心を見守る”とは、このキリストの救いをいただき、さらに、内にキリストに生きていただく生き方を指している。冒頭で述べた通り、箴言の著者はソロモンとされている。彼の生き方は、神に喜ばれるものだった。だが、その晩年は、異邦の女性たちに心が傾き、偶像礼拝に走った(1列11:1-10)。自分の心を見守ることをやめてしまったのだ。私たちはどうか。自らの心を見守り、神の前に出て、導いていただきたい。