神に会う備え
アモス4:1-13
今日開かれているアモス書は、預言者アモスが語った預言が記されている書だ。彼は、イスラエルの国が南北に分裂した後の時代、北イスラエル王国に対する預言を語り伝えた。当時の北イスラエル王国は、強力な王に率いられ社会的・経済的には繁栄していたが、宗教的には堕落していた。偶像礼拝の罪がはびこり、人々の心は真の神から離れていた。そんな人々に向かって、偶像礼拝の罪をやめ、悔い改めて真の神に立ち返るようにと、彼は語り続けた。
1節の「サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」とは、繁栄を謳歌していた人たちが、肥沃なヨルダン川東側のバシャン地方で特産とされた力強い牛に例えられている表現だ。強さを誇って傲慢になり、自分の満足、自分の利益、自分の楽しみを求める人間の姿だ。これは、現代の私たちの社会にも見られる姿ではないか。神を知らず、自分たちの罪に気がつかず、滅びに向かっている世の有様だ(黙3:17, 2テモ3:1-5a)。私たちは、このような罪の世にあって、その行き着く先が滅びであるとも知らず、罪にまみれて生きていた。そんな私たちのところに、神はひとり子キリストを遣わしてくださった。キリストを通して、私たちが神と出会い、神の救いに与るためだ。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたことによって、この救いの道は完成した。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(ヨハ3:16, 1ヨハ1:9)。かつては罪の中に死んでいた私たちが、真の神に出会い、キリストの救いをいただき、新しい命に生きる生き方へと変えていただいた(エペ2:1-5)。
4節に「ベテルに行って背け。ギルガルに行って、ますます背け」とある。ベテルもギルガルも、偶像礼拝が行われていた場所だ(1列12:32, ホセ9:15, 12:11)。人々は、自分たちは正しいことをしている、間違っていないと主張しながら、神が忌み嫌われる偶像を拝み、罪を犯していた。そして、それを指摘する神の語りかけを拒み続け、神に立ち返ろうとしなかった。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」という句が繰り返されている通りだ(6-11節)。
この彼らの姿は、肉に生きる私たちを表している。救われた私たちはやがて必ず、内に汚れた罪の性質があることに気がつく。神を信じていると言いながら、世を慕い、罪から離れようとせず、神よりも己を愛している。神がこのような肉の姿を教えてくださっても、心を頑なにし、神に立ち返ろうとしない。この肉を始末しない限り、私たちは滅ぼされてしまう。私たちに必要なことは、自らの姿を認め、砕かれて神の前に出て、神に会うことだ。私たちがそのようにするとき、神も私たちに会ってくださり、私たちに十字架を示してくださる。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは内に生きて働かれるキリストを通して、神の御心に生きる者となることができる。「その御思いが何であるかを」知った者として、「地の高き所」をキリストともに歩む(13節, 1ペテ4:2, 1ヨハ2:17, イザ58:14)。
救いを与えるときも、肉の始末と内住のキリストへと導くときも、神と会うことが鍵だ。神は私たちと会ってくださる。ただし、それは私たちの側に備えができたときだ(12節)。私たちは、自らの心を省み、神に会う備えをしたい。砕かれて神の前に出ていきたい。