礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2025.07.27

神の憐れみの眼差し

ヨナ4:1-11

 ヨナ書は、極めて短い書巻でありながら、神の憐れみが溢れんばかりに表された書だ。1章には、神からニネベに行って預言するように命じられたヨナが、「主の御顔を避けて」(1:3)反対方向へ出向き、神からそれを留められる顛末が記されている。神は大魚を「備えて、ヨナを呑み込ませた」(1:17)。2章には、神から留められ、大魚に飲み込まれた彼が悔い改める様子が記されている。神は、彼を憐れみ、命を助けられた。滅びの穴から引き上げられたことを感謝し(2:6)、「救いは主のもの」(2:9)と告白する彼の祈りに、悔い改めの深さを見ることができる。3章には、もう一度ニネベに遣わされた彼が語った預言を聞き、ニネベの人が悔い改める様子が記されている。王をはじめ、国中の人々が神を信じ、罪を悔い改めた(3:5-9)。神は、ニネベを憐れみ、下すと言われていた災いを思い直された(3:10)。そして、今日開かれている4章には、神が災いを思い直されたことが気に入らなかったヨナが、神に向かって恨み言を吐く姿が描かれている。神は、そんな彼に対してご自分の憐れみの心を教えておられる。


 ヨナが「主の御顔を避けて」(1:3)ニネベと反対の方へ出て行ったように、私たちも罪のために神の御顔を避け、そのままでは滅びる存在だった(創3:8)。そんな私たちを憐んでくださった神は、救いの道を備えてくださった。大魚を備え、ヨナの命を助けられたように、神はひとり子キリストを備え、私たちの魂を救ってくださった。ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたのは、キリストを指し示したしるしだった(マタ12:39-41)。十字架にかかって死に、墓に葬られたキリストは、三日目によみがえられ、私たちのためにしるしとなられた(ルカ11:29-32)。私たちがこのキリストの十字架と復活を信じて、救われるためのしるしだ。どんな罪を犯した人であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。ちょうどニネベの人々が、ヨナの預言を聞いて悔い改め、神を信じて、滅びを免れたように、私たちもキリストのもとで罪を悔い改め、キリストを信じるなら、滅びから救われる(ヨハ3:16)。


 それでは、今日の4章に描かれるヨナの姿は何を示しているのか。肉の始末のついていない人の姿だ。キリストの救いをいただいた者は、やがて必ず、自らの内に罪の性質があること気が付く。ヨナのように、たとえ喜ばしいことがあっても、自分の機嫌が悪く、自分が気に入らなければ、平気で文句を言うといった自己中心の本性だ。表向きはクリスチャンらしく振る舞っていても、その腹の中では神よりも己を愛し、己の気分や感情や都合を優先させている本性だ。このような肉が内にある限り、私たちはやはり滅ぼされてしまう。肉の姿をさらけ出すヨナに向かって、神がご自分の憐れみの心を教えられたように、肉をかかえる私たちにも、神はキリストの十字架をもって臨んでくださる。私たちが、自分の肉の姿を認め、砕かれて神の前に出て行くなら、十字架が示される。示された十字架に肉をつけて始末するなら、キリストが内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、私たちは神の御心を悟り、神の御心に従って生きることができる(ロマ12:2)。


 ヨナ書は、神がヨナを諭された言葉で終わっていて、ヨナがその後どうなったかは書かれていない。このこと自体が、神の憐れみなのではないか。ヨナ書を読んだ私たちが、自分はどうするかと問われているのだ。今、神の憐れみの眼差しが私たちのほうに向けられている。あなたは、この眼差しにどう応えるだろうか。