礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.12.31

主をほめたたえよ

詩篇103:1-22

本日開かれている詩篇103篇は、年末によく開かれる詩篇だ。2節は、本日のような年の暮れに読むと、一年の感謝の思いが湧き上がってくる。だが、この2節は、ただ年末感謝、ただ一年を感謝するためだけの御言葉ではない。103篇全体を学ぶとき、2節に込められたメッセージを受け取ることができる。

まず、この詩篇は、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」と、主への賛美で始まり終わる(1, 22節)。”ほめたたえる”とは、祝福するという意味の言葉だが、ひざまずくという意味もある。誰かから祝福を受けるためには、その人の前でひざまずくのが慣わしだったからだ。ここから、祝福を受けるためには、へりくだる姿勢、謙虚さが必要であるとわかる。私たちが傲慢さを捨て、心から主の前にへりくだるとき、豊かな神の祝福をいただくことができる(ヤコ4:6, 10)。

6, 7節には、出エジプトのことが記されている。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として、まさに虐げられていた。神の憐れみにより義とさばきが表され、モーセにエジプト脱出の道が示された。モーセに率いられた人々は神の大いなるみわざを知った。この体験が彼らの謙虚さの原点だった。いつも彼らはこのところを忘れないように、蔑ろにしないように語られた(申6:12)。私たちの謙虚さの原点は何か。明確なイエス・キリストの救いだ。キリストは神の義とさばきを表すために、十字架による死と復活を成し遂げてくださった(エレ23:5)。このキリストの十字架と復活によって私たちに救いの道が開かれた。誰でも自分の罪を悔い改め、十字架と復活を信じる者は、罪を赦していただき、滅びからの救いをいただくことができる。この明確なキリストの救いをいただいた者は、神の前にへりくだることがわかる。この原点を通らない限り、どんなに頭でわかっても、納得していても、謙虚さはわからない。

8-13節には、神がいかに憐れみと真実と愛に満ちたお方であるかが詠われている。肯定文と否定文のコントラストをもって、また、比喩をもって、私たちが理解しやすいように、思い描きやすいように語られている。神は憐れみと真実と愛を尽くして、イスラエルの民を導かれたのだ(申8:2-5)。私たちをも、神は憐れみと真実と愛を尽くして導いてくださる。14-16節には、私たちがいかに小さく、はかない者であるかが綴られている。どんなに神が憐れみと真実と愛を尽くしてくださっても、私たちが驕り高ぶっていてはそれをはねのけてしまう。事実、イスラエルの民は、神の憐れみと真実と愛を、傲慢によってはねのけた。自分たちの上になされた神のみわざを忘れたからだ(詩106:13,21)。私たちも、いただいた救いを蔑ろにして生きるなら、憐れみと真実と愛に満ちた神がわからなくなる。私たちは自らの歩みを省み、自らの姿を振り返りたい。神の前にへりくだることを忘れ、傲慢な態度をさらけ出していないか。神の憐れみと真実と愛に満ちた導きが注がれているにも関わらず、それをはねのけていないか。救われた者は必ず、このように自らの内に残る肉の姿に気がつく。気がついたならば、それを主の前に持っていき、十字架につけたい。そうするならば、キリストが我が内に臨んでくださり、働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。17,18節にあるのは、キリストを内にいただき、主の豊かな恵みと義によって生きる者の姿だ。内に働いてくださるキリストによって、私たちは真の意味で「主を恐れる者」となることができ、「主の契約を守る者」「主の戒めに心を留めて行う者」として生きることができる。

以上のことを踏まえると、3-5節のメッセージがわかる。明確な罪の解決と滅びからの救い、へりくだった者に注がれる神の恵みと憐れみ、そして、キリストによって造り変えられ新しくされた者の姿だ。

「主が良くしてくださったこと」(2節)とは、こうした魂の取り扱いのことだ。主の憐れみと真実と愛を忘れず、主の前にへりくだり、魂を取り扱っていただいて、「主をほめたたえよ」と、心からの主への賛美をささげながら、新しい年へと向かっていきたい。