礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.08.13

一本の杭

エズラ9:1-15

エズラ記は、捕囚から帰還したイスラエルの民の宗教面を指導した祭司エズラが記した書巻だ。前半の1〜6章には、イスラエルの民が神殿復興のわざに着手し、妨害に遭いながらも完成させる様子が描かれている。後半の7〜10章には、民の倫理面・道徳面が取り扱われ、神の御前での生活を整えるためにエズラが大胆な改革を断行した様子が記されている。この前半と後半の関係は重要だ。目に見える礼拝が整うと、目に見えない神の御前での姿勢に光が当たる。目に見える礼拝の場の再建は、神の御前に歩む私たち自身の再建へとつながる。私たちはまず、この点において深く光を当てていただきたい。

今日の箇所は、エズラのもとに、民の罪に満ちた生活の実態が伝えられる場面から始まる(1,2節)。彼はその場で神の御前に出る(3,4節)。民もまた深い悔い改めの心をもって集まる(10:1)。砕かれ、悔いる心を、神はお求めになる(詩51:17)。自分の罪深さを思い知り、神の憐れみにすがって御前に出るところから、神のみわざは始まる。

神の御前に出たエズラは、悔い改めと信仰の祈りを献げる(5-15節)。今日特に、8,9節に着目したい。まず、「一本の杭を与えてくださいました」(8節)とある。新約の光で見るなら、これはキリストの十字架を指し示している(イザ22:22,23)。キリストは、神から遣わされ私たちのところに来てくださり、十字架にかかって死に、死を打ち破ってよみがえってくださった。このキリストの十字架と復活こそ、罪のために神から遠く離れ、滅びる存在だった私たちが救われる唯一の方法だ(ロマ4:25)。私たちが、自分の罪の姿を思い知り、神の憐れみによりすがって神の御前に出て行くとき、キリストの十字架が「一本の杭」として私たちに示される。私たちが自分の罪を悔い改め、十字架を信じるとき、私たちに罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。

次に、「目を明るくし」(8節)という一句に目を留めたい。「一本の杭」が与えられた目的は、民の目を明るくするためだった。民がエルサレムに再び導かれたのは、真の神に仕え、その御心に目の開かれた者として生きるためだった。この目的が果たされるためには、まだ残る曇り、神の御前に立てない実態を徹底して捨て去る必要がある(詩36:9)。私たちも、明確な罪の赦しをいただいたなら必ず、なおも魂の目を曇らす汚れに気づく。罪から完全に離れられず、神に逆らってでも自己を押し通そうとする姿に気づく。気づいたならごまかしたり、心を頑なにしたりせず、砕かれ、悔いる心で神の御前に出ていきたい。与えられている「一本の杭」である十字架を見上げ、十字架に己をつけて始末したい。そうするならば、キリストが内に臨み、内から働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。目の明るくされた者、神の御心を悟り、神の御心に生きる者となる(黙3:18, エペ1:18)。

もう一点、「石垣をくださいました」(9節)というところも見たい。これは城壁のことだ。石垣が強固になって城壁になる。石垣は神が備えてくださった。それを強固にし、城壁として建て上げていくのは民のなすべきことだ(ネヘ2:17,18)。これは、私たちの信仰の歩みを指す。神が、キリストの救いによって私たちに信仰を始めてくださった。そこから、私たちが信仰を神に献げ、神の御前を誠実に歩んでいくなら、堅固な城壁が建てられていく。「一本の杭」を中心に据えた城壁だ。ヨハネ黙示録21章には、天の御国の城壁が碧玉で造られていたとある(黙21:18)。碧玉は不純物を含むため、磨くと赤や青など様々な色に輝く。私たちも、たとえ不純物だらけのものであっても、明確に救われ、内に主に生きていただくなら、美しい輝きを放つことができる。これこそ信仰の歩み、堅固な城壁だ(ロマ12:1,2)。

エズラ記のテーマは、礼拝と再建だ。私たちも、神の御前に礼拝の歩みを問うていただきたい。そして、「一本の杭」を与えていただき、信仰の再建を成し遂げていただきたい。