礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.05.14

みこころを行う者

マタイ7:21-27

今日の箇所は、5章から7章にかけて収められている、いわゆる山上の説教の締めくくりだ。マタイは、福音書を書くにあたり、その中の実に3章分もの紙面を割いて、イエス・キリストが人々に語ったメッセージをまとめた。それが山上の説教だ。

山上の説教の鍵は、神の御心を行う、ということだ(21節)。山上の説教から有名な箇所だけを抜き出してみても、その鍵を頼りに読むとわかりやすい(マタ5:1-10, 6:9-13, 6:21, 6:33, 7:7,8, 7:13,14)。これを読む者は、神の御心に対してどのように生きているか、という鋭い光が当てられる。神の御心はみことばを通して語られている。神のみことばを聞いて、神の御心を行うかどうか、つまり、神の御心に生きるかどうかということが問われる。御心に生きる者は救われ、そうでない者は滅びる。

私たちは神から遠く離れ、神の御心に生きる生き方から縁遠い存在だった。そのままでは罪のために御心に生きることはできず、滅びる者だった。そのような私たちのもとに、神は御子キリストを遣わされた。キリストは、神の御心を語り、神の御心に生き、ついに十字架と復活を成し遂げた(マタ26:42, イザ53:10)。このキリストの十字架と復活こそ、神が私たちに与えてくださった救いの道、私たちが神の御心に生きる者となるための方法だった(ヨハ6:37-40, ガラ1:4)。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じるならば、どんな者も罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。救いをいただいた者は、神の御心を求め、神の御心に生きる生き方を始めることができる。ちょうど、キリストの救いという土台を据え、そこに家を建てていくようなものだ(24,25節)。この土台を据えず、相変わらず罪にとどまる者は、滅び去ってしまう(26,27節)。

22節に注目したい。神から退けられる者たちの言い分だ。「預言」することも、「悪霊を追い出」すことも、「多くの奇跡を行」うことも、どれも正しく、すばらしいことだ。ルカ13:23-27に並行記事がある。こちらでは、神の「面前で食べたり飲んだり」していたし、彼らの「大通りで」教えていただいたではないですか、と言っている。神の前で食べたり飲んだりするという表現は、モーセが一度目の十戒を授けていただく直前の記事を彷彿とさせる(出24:1,11)。おそらく、自分たちは特別扱いしていただいたではないですか、ということだろう。傲慢な姿だ。また、大通りで教えていただくという表現は、人々の見ている前で、公の場で教えを受けたということだ。しかし、どんなに大通りで教えを受けても、その教えに聞き従わなければ意味がない(箴1:20-33)。このように、どんなに正しく、すばらしいとされることでも、神の御心から離れ、心の中に傲慢や虚栄や堕落があるならば、決して神に受け入れられることはない。たとえ、「主よ、主よ」と口先や表立っては御心に従っているようであっても、神は心をご覧になり、退けられてしまう。

私たちの心はどうなっているか。救われた後なおも内側に残る肉の性質を神の前に照らしていただき、それを十字架の上に始末するならば、キリストは内側に臨んでくださり、内に住んでくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内に働いてくださるキリストによって、神の御心を行い、神の御心に生きる者となる(ロマ12:2, 詩40:8)。神が私たちの上に成してくださる御心だ(1テサ4:3a)。

私たちも、神の御心を行う者、神の御心に生きる者とならせていただきたい。