まず神の国と神の義を求めなさい
マタイ6:25-34
本日の箇所は、山上の説教のひとくだりだ。イエスは、ご自分に従ってきた人々に向かって、深く、鋭いメッセージを語られた(4:25-5:2)。そのどれもが、現代の私たちに対しても、深く、鋭く語りかけるメッセージだ。
本日の箇所の中心は、33節だ。「神の国」とは、神の御支配のことだ。神の臨在の中で、神の守りと導きによって歩む生き方のことだ。「神の義」とは、義なる神の御性質のことだが、その神の義によって汚れから決別し、神の義を表していく生き方のことだ。
その前の箇所には、「何を食べようか何を飲もうかと」自分の健康を保ったり、「何を着ようかと」自分の生活を保ったりすることを心配するなと言われている(25-31節)。健康や生活がどうでもよいのではない。健康も生活も、神が御手の中に握っておられる。私たちの必要をご存知の神が、必要なものを必要なときに必要な分だけ与えてくださる(32節)。だから、もっと大切な魂のこと、神の国と神の義をまず求めよと言われているのだ。
異邦人は、神を知らず、いや、知ろうともせず、健康や生活こそが幸せの鍵だと信じて求めている(32節)。私たちのかつての姿だ。罪のために神から遠く離れ、その先に滅びが待ち受けていることも知らずに、世にある肉の幸せを求めて生きていた。神は、そんな私たちを憐れみ、私たちが滅びるのを惜しんでくださり、ひとり子キリストを遣わしてくださった。キリストの十字架と復活によって、私たちに救いの道を開くためだった。どんな人であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを私の救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。これがキリストを通して、私たちに与えられる神の義だ。私たちが、神の義によって歩む者となるためだ(1ペテ2:24, ロマ3:21-26)。異邦人であった私たちは、真の神を知り、キリストの救いに与ることによって、神に近い者なり(エペ2:11-13)、神の国と神の義を求める生き方が始まる。
こうして救われた者はやがて必ず、自らの内側にある罪の性質に気が付く。まず求めるべき神の国と神の義が示されているのに、やはり世にある肉の幸せに目を移し、心を奪われている。神の国と神の義を求めているというのは建前で、実際のところ、世と世にあるものにしっかり心が結びついている。そればかりか、神の国、神の義とは口先だけで、自分が打ち立てようとしているのは、自己中心という自分の国、唯我独尊という自分の義ではないか。こうした肉を抱え持ったままでは、私たちは肉のために滅ぼされてしまう。私たちがなすべきなのは、自分の汚れた姿を認め、砕かれて神の前に出ることだ。私たちがそうするなら、神は真実を持って私たちを導き、十字架を示してくださる。示された十字架に自らをつけて始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。
キリストを内にいただいた者は、キリストを通して、内に神の国と神の義が実現する。神の臨在の中を、神の守りと導きによって歩んでいく。義なる神の御性質を自らの性質とし、自らの姿を通して神の義を表していく。
私たちは何を求めているか。まず神の国と神の義を求めたい。私たちが心からへりくだり、また信仰によって求めるなら、神の国と神の義は私たちにも与えられる(ルカ12:31,32, ピリ3:9b)。





