まことの安息
マタイ11:25-30
聖書には、神の招きの言葉がいくつかある。イザヤ55:1、ヨハネ7:37、黙示録22:17などが挙げられるが、マタイ11:28はもっともよく知られている。主イエスは、私たちを招いておられる。それは、主が私たちに与えてくださるものがあるからだ。それは、安息とくびきと学びだ。
1.安息
この安息は、罪の重荷と死への恐れからの解放だ。罪なきイエスが、私たちに代わって罰せられて、私たちを解放してくださった。罪から解放された魂に安息が与えられる。罪を認め、悔い改め、十字架を信じた者が、罪が赦され、神の子どもとして新しく生まれ変わるという救いが与えられる(ロマ3:24)。罪から救われ、死の恐れから解放され、天国の希望が与えられることが、どれほどの安息になることか(ヨハ14:1-3)。
2.くびき
罪の重荷が除かれ、安息が与えられたら、腰を落ち着かせてしまうのではない。そこからイエスと共なる歩みが始まる。しかし、そのままでは歩調が合わない。だからイエスはくびきを与えてくださる。
くびきは自我が砕かれなければ負うことができない。どこまでも自分を愛し、正当化し、憐れむ自我、神よりも己の都合を優先させ、己を気持ちのいい所に置き、傷つかないように、嫌な思いをしないように、損をしないように努めようとする、神に喜ばれない肉の性質を、イエスの十字架のもとに持って行って釘付けにして、己に死んで、キリストが内に生き給うという信仰に啓かれる(ガラ2:19,20)。
そこから真にイエスと共なる歩みが始まる。イエスが私たちに寄り添い、私たちの歩みに合わてくださるだけではなく、私たちをイエスに合う者とならせてくださるということでもある。それは決してしんどい歩みではない。「わたしのくびきは負いやすく」と言われる。自分でなんとかして到達するのではなく、すでに十字架で成し遂げられた完全な贖いをもって、イエスが導いてくださるのだ。
3.学び
イエスと共なる歩みに入れられた者は、絶えず神の御心に従われたイエスの謙遜と従順を、時々刻々学び続ける(ピリ2:5)。キリストが内に生きてくださるのだから、私の内にキリストのかたちが日々成っていくのだ(ガラ4:19)。失敗することがあっても、主を仰いで従い続ければ、確実に成長する。
イエスは私たちを招いてくださる。それは、イエスが神から全ての権威が与えられたからだ(27節)。あらゆる権威・権力がイエスに与えられた(マタ28:18)。主が神に従順であられたからこそ、神は主に全てを任せられた。だから、28節の御言葉があるのだ。
私たちにまことの安息を与え、くびきを負わせ、学びを与えてくださるのは、神から全権をゆだねられたイエスだけだ。主の招きに応えたい。素直に主のもとへ行こう。