礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.04.09

主を捜すべきところ

ルカ24:1-12

十字架から下ろされて亡骸が葬られたイエスの墓を、女性たちが訪れ、復活の事実を目の当たりにするという場面は、4つの福音書全てに共通しているが、そのうち、マタイ、マルコ、ルカが、その時に現れた御使いが彼女たちに語った言葉を詳細に記している(マタ28:5-7,マル16:6,7, ルカ24:5-7)。そして、ルカの記述は、他の二つと比べて一風変わっているように思える。内容を比較してみると、それぞれのポイントが見えてくる。マタイとマルコの方は、“恐れるな”、”誰を捜しているのか知っている”、“ここにはおられない”、“弟子たちに主とまたお会いできると伝えよ”だ。一方のルカは、“なぜ、ここを捜すのか”と”イエスの言葉を思い出せ”となる。

1.なぜ、ここを捜すのか。

「生きている方を死人の中に捜す」(5節)は、まるで違ったことをしているという意味で言われているようにも取れるが、それだけではない。死と滅びの中に命の希望があるかのように捜し回っていないか、という神の導きの光でもあるのだ。世の人は、キリストの復活を知らず、また、信じようとせず、どこか他のところを一生懸命捜し回って、命、希望、喜び、平安、確信を得ようとしている。それは、あたかも、空の墓の中を虚しく捜すようなものだ。罪のために神から遠く離れているからだ。そして、世もそれなりのものが提供できるからだ。だが、それらは見せかけだったり、やがて朽ちてしまったりする。そして、それを追い求める者たちも、その罪のために、確実に滅びる。しかし、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたキリストは、今も生きておられ、私たちに命、希望、喜び、平安、確信を与えることがおできになる。十字架と復活による救いが成し遂げられたからだ。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じる者は、誰一人の例外なく、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。もはや「生きている方を死人の中に捜」さない生涯、永遠の命に生きる希望に溢れ、喜びと平安に満たされ、確信に固く立った生涯へと踏み出すことができる。

2.イエスの言葉を思い出せ。

「主がお話しになったことを思い出しなさい」(6節)とあるが、その内容とは、「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえる」(7節)、すなわち、十字架と復活の福音だった。明確なキリストの救いをいただいた者にとって、十字架と復活の福音は原点となる。自分がどこから救われたのかをいつも思い返す。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」(8節)。しかし、彼女たちからイエスの復活の報告を聞いた弟子たちは、そうではなかった。彼らは、イエスの言葉を思い出すことなく、信じることもできなかった(11節)。転機となったのは、「イエスご自身が彼らの真ん中に立」たれたときだった(36節)。イエスは「彼らの心を開いて」(45節)聖書を悟らせ、信仰を奮い立たせてくださった。イエスを真ん中にしたところこそ、彼らが捜すべきところだったのだ。彼らの信仰は回復し、イエスの昇天を経て、ペンテコステへとつながっていく。

私たちは捜すべきところで主を捜しているだろうか。救われたことをどこか遠くにやってしまい、人間的、世的な範囲に留まっていないか。信じている、求めていると言いながら、浅いところで満足していないか。捜すべきところで捜さない者は、主を見出すことはできない(ヨハ7:34、8:21-24)。救われた後なおも、罪の中に留まり、いただいた救いを蔑ろにしたり、始めていただいた救いの原点を失ってしまったりするならば、私たちは滅びてしまう。自分の本性を認め、主の前に出て、肉を十字架につけて始末するなら、主は私たちの内に来てくださる(ガラ5:24、2:19b,20a)。私たちは、主は私の内に生きていると言って、復活の主と共に歩むことができる。