礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.02.12

見えるようになるために

ヨハネ9:1-12,35-41

今日の箇所の冒頭でイエスが言われた「神のわざ」(3節)とは何だったのか。三重ある。まず一重目は、彼の肉体の目が癒やされたことだ。弟子たちが言ったように(2節)、身体に障がいのある人たちは、因果応報や先祖の因縁という目で見られ、社会的に見捨てられた存在だった。しかし、イエスはそんな社会通念を一蹴された。そして、彼の目に触れられた。おそらく誰一人しようとしないことだっただろう。イエスに言われた通りにして従った彼は、見事な癒しを体験することになった。だが、それで事は終わらず、一大論争へと発展したのだ。イエスもまた、それで決して満足されなかった。彼を探して見つけ(35節)、救いへの導きをなされたからだ。

二重目は、彼の魂の目が開かれたことだ。盲目を癒された彼は、人々に囲まれ、問いただされることになった。段々エスカレートし、尋問か脅迫のような態度を見せる人々に応えながら、彼の内面は変わっていき(17,25節)、ついに、あの人は救い主だという確信が生じる(30-33)。彼は、肉体の目だけでなく、魂の目が開かれたのだ。そんな彼にイエスは再び会い、明確な信仰へと導かれた(35-38節)。

三重目は、彼を通して、人々の霊的盲目にメスが入れられたことだ。彼の信仰告白の場に居合わせた人々は、イエスの「見える者が盲目となる」(39節)という言葉に反応した(40節)。正しいものが見えてもいないのに、自分は見えていると言い張っているではないかという、神の取り扱いの光だ。自分は見えている、わかっていると言い張り、救い主を見ようとしない、わかろうとしない姿は罪の姿だ(ヘブ4:7)。一人の盲目の人の癒しは、実は、周囲の人々の実態を明るみに出し、その心に光を当てるための神のわざだった(エペ5:10-15a)。

神が、私たちに現してくださる神のわざも三重だ。まず一重目は、私たちが抱える悩みに解決が与えられることだ。神は、私たちが抱えている苦しみ、悲しみ、痛みを知っておられ、御手を伸ばして触れてくださる。私たちが、神の前に出て、語られる御言葉を聞き、信じて従うなら、豊かな回復を与えてくださる。しかし、神の光はさらに深い魂の問題へと差し込み、信仰の世界へと導く(2コリ4:18)。

二重目は、私たちの魂の目が開かれ、罪の解決が与えられることだ。御言葉を聞き続けるならば、必ず罪の問題が示される。どんな問題が解決し、どんな悩みが解消しても、私たちの魂が罪の解決をいただかない限り、私たちは目の開かれた者となることはできない。この罪の解決こそ、キリストが私たちのところに来てくださった目的だ。私たちは、罪のために神から離れ、滅びゆく存在だった。キリストは、この罪の問題に解決を与えるために、十字架にかかって死に、死からよみがえってくださった。神の前で罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じる者は誰でも、滅びからの救いをいただくことができる。救われた者は、魂の目の開かれた者として、信仰の目をキリストに注ぎながら歩み出すことができる(ヘブ12:2, 2ペテ1:19)。

三重目は、私たちが霊の深みで目の開かれた者となることだ。明確な救いをいただいた者は必ず、救われた後なおも内側に残る汚れに気が付く。罪の根が残る限り、私たちは霊的盲目の性質を引きずってしまうのだ。私たちがその実態を悟るように、神は御言葉を語り続けられる(2ペテ1:4-9)。私たちが心を頑なにせず、自分の実態を認め、神の前で罪の根を十字架につけて始末するならば、キリストが内に臨んでくださり、内に生きてくださる。内から働いてくださるキリストによって、霊の深みで目の開かれた者として歩むことができる。

私たちの目は開かれているだろうか。本当は見えていないのに、見えている、大丈夫だと言い張っていないだろうか(黙3:17)。私たちが「見えるようになるために」(黙3:18)、神のわざは備えられている。私たちも、キリストに目を開いていただきたい。