礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.01.08

一つの旗

詩篇60:1-5

今日開かれている詩篇60篇には表題が付けられている。2サムエル8章に記録されている記事の場面だと言われている。ここでダビデは、前からも後ろからも敵に挟まれるという窮地に追いやられている。しかし、どんな窮地であっても、神が共にいてくださるという信仰に立つ者は、勝利を与えていただくことができる。私たちも苦境に立たされるとき、回復、癒し、助け、救い(1-3,5節)が神から与えられると信じたい。だから、厳しいときほど、私たちには信仰が必要となる。そして、目の前の苦境は、私たちの信仰を引き上げるために、神が備えてくださったものなのだと知る。では、私たちが自分の信仰を引き上げるための鍵となることは何か。その答えが、4節にある。

  1. 主を恐れること  神の前に虚しくなり、神に全てを委ねるということだ。自分の力で頑張り、自分でできると言い張っているうちは、信仰を引き上げることはできない(詩33:18,85:9)。
  2. キリストのために生きること  4節を文語訳聖書で見ると、「真理のために挙げしめんとて」となっている。キリストは真理のお方として私たちのところに来てくださった(ヨハ14:6, エペ4:21b)。罪を犯したために、神から離れ、真理を失ってしまった私たちに救いを与えるためだ。キリストは、十字架にかかって死んでくださり、死を打ち破ってよみがえられた。この十字架と復活こそ、神が与えてくださった私たちの救いの道、私たちにもう一度真理を回復していただく方法だった。自分の罪を悔い改め、十字架を信じる者は誰でも、この救いをいただくことができる(1テモ2:4)。救いをいただいた者は、命をかけて自分を愛してくださり、永遠の命の約束を与えてくださったキリストのために生きたいと願う。
  3. 旗を授けていただくこと  明確な救いをいただいた者に、一つの旗が授けられる。旗は何を意味するのか。

A. 私たちの基準点  旧約聖書の時代のイスラエルでは、部族ごとに旗が定められていた。モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を旅する民は、自分の部族の旗じるしのもとに行動するよう命じられた(民2:2)。旗の下に集まって宿営し、旗に従って進んだ。言わば、旗は彼らの基準点だった。私たちにも救いという基準点が与えられている。救われた者として歩み、救われた者として生きる。私たちにとっての基準だ。

B. 私たちが見上げるところ  荒野を旅するイスラエルの民は、度々神とモーセに逆らった。ついに、神は燃える蛇を彼らの間に送られた。彼らが自分たちの罪を悔い改め、モーセに助けを乞うたので、神はモーセにある方法を示された。それは、青銅で蛇を作り、それを旗ざおに掲げるという方法だった。民は、旗ざおに高く掲げられた蛇を見上げることで、死を免れ、助かることができた(民21:8,9)。青銅の蛇とはキリスト、旗ざおは十字架を表している(ヨハ3:14,15)。キリストの十字架を見上げる者は、どんな罪でも赦され、生きることができる。救われてもなお私たちの内側に残る罪の根も、十字架を仰ぎ、汚れを十字架につけて始末するならば、私たちは真に生きる者となることができる(ガラ2:19b,20a)。

C. 私たちの内に臨在してくださるキリスト  アマレク人との戦いで、神は不思議な方法でイスラエルに勝利を与えられた。モーセはそのことを記念して祭壇を築き、「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)と呼んだ(出17:15,16)。これは、神の臨在に対するモーセの信仰告白だ。神は、私の旗として、いつも私の上に翻って、いつも先頭に立って戦い、私を勝利へと導いてくださる、ということだ。私たちも、このアドナイ・ニシをいただくことができる。救いの基準からずれることなく、いつも十字架を見上げ、十字架の上に肉を始末した者に、キリストは内住の主として臨んでくださる。いつもキリストを信じる信仰の旗を高く掲げながら歩むことができる。

最後に、4節の文語訳には「一つの旗」となっていた。私たちが掲げる旗も一つ、私たちが信仰の目を注いで従っていくお方もお一人だ(マタ17:8)。主を信じる信仰の一つの旗を高く掲げ、始まったばかりの今年、主の前を歩んでいきたい。