礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.12.25

現わされた最高の愛

Ⅰヨハネ4:1-12

本書によく出てくる言葉である「光」、「いのち」、「愛」は、私たちの救いに直接関わるものだ。

まず「光」だ。神は光なる方(1:5)、つまり義なる方、罪を裁かねばならない方だ。私たちは義なる神の前に一人残らず罪人であり、確実に裁かれ、滅ぼされるべき者だ。そういう私たちの所に、神の御子キリストが光として来られた(ヨハ1:9、8:12)。私たちを光の中に招くためだ。御言葉の光に従えば、罪がわかり、悔い改めへと導かれる(1:9)。そして十字架によって罪の赦しが与えられる(1:7)。こうして私たちも光の中を歩む者になる。

次に「いのち」だ。私たちは罪のために、いのちを失った者、魂が死んでいる者だ。天地創造の昔、神はご自身にかたどって人を造られ(創1:27)、神の息で生きる者にされた(創2:7)。人は神との自由な交わりの中に生きる者に創造されたのだ。ところが人は罪を犯した。神の御言葉に背いたのだ。その結果、神のかたちは壊され、人は神との関係が断絶された者になった。

こうして私たちは神から遠く離れた者になった。これが罪の原型だ。神のかたちが失われた私たちは、真のいのちを持たない者になってしまった(エペ2:1)。死人は呼びかけても応えないように、私たちは神の語りかけに応えない者になった。死人は冷たいように、私たちは愛がなく冷淡な者になった。死人は硬直するように、私たちは心が頑なな者になった。これが私たちの姿だ。

神はそういう私たちにいのちを与えてくださる。キリストの贖いによって、神が私たちの魂を生き返らせてくださるのだ。それが「愛」だ。

人はみな愛されたい。しかし、真実の愛が他のものにすり替えられ、ごまかされ、軽んじられている。本日の聖書個所に真の愛、神の愛が現わされている(7,8節)。聖書の神は愛の神だ。私たち一人一人を愛してくださる神だ。

その愛の具現がキリストだ(9節)。キリストは2000年前に神から遣わされてユダヤにお生まれになった。キリストが来られた目的は、罪のために魂が死んでいる私たちを生かすことだった。

神が私たちを生かす方法は、宥めのささげ物、贖いの供え物として御子を死なせることだった(10節)。神は私たちを生かすために、御子を十字架におつけになったのだ。神を知ろうとしない、神を愛そうとしない罪人の私たちのために、神は最愛の独り子を十字架におかけになったのだ(ヨハ3:16)。

こうして神は犠牲を払われた。真実の愛は犠牲を伴う。そこにはどれほどの痛みがあっただろうか。キリストの十字架にこそ真の愛、無条件の愛が現わされた。“だから”の愛ではなく、“にもかかわらず”の愛だ。この愛によって、私たちは罪と滅びから救われる。

私たちは、まず御言葉の光に照らされて自分の罪を認め、神の前に罪を悔い改め、そして十字架を信じよう。そうするなら、全ての罪が赦され、神に受け入れられる。これがキリストの救いだ。この救いをいただいて、神が私たちを愛されたように、私たちも他を愛する者になる。神の愛に生かされたとき、私たちは相手のために喜んで犠牲を払う者になる。こうして神の愛が全うされる(12節)。

クリスマスは、十字架に現わされた最高の愛を受け取る時だ。その愛は、一生懸命捜し求めていくのではなく、もう十字架の上に現されているのだ。そのまま受け取ろう。