礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.11.13

キリストを着る

ローマ13:11-14

ローマ人への手紙は、パウロが、これから自分が行くつもりにしているローマのクリスチャンたちに宛てて書いた書簡だ。彼はその書簡の中で、わかりやすい例えを用いながら、パウロが何を語り、何を伝えているのか、その真髄を述べている。今日の個所では、救いの奥義が服を着ることに例えられている(14節a)。古代ローマ人は、服装によって身分や階級がわかるようにしていた。だから、“キリストを着る”というパウロの例えは、ローマのクリスチャンたちにとって大変わかりやすかっただろう。

さて、身分や階級がわかるようになっている服装には当然、着用のための条件と認可が必要だった。キリストを着るためにも条件がある。その条件を満たした者が、神からキリストを着ることを許されるのだ。その条件を、今日の箇所から次のように学ぶことができる。

  1. 目を覚ましていること

「眠りからさめるべき時刻」(11節)とある。眠っていては、自分がどのようなところにいて、どのような状態で、この先どうなっていくのか、全くわからない。目を覚ますとは、見続ける、目を離さないということでもある(黙16:15)。見るべきものが見えていなければ、目を覚ましているとは言えない。

  1. 自分の姿を見ること

「昼らしい、品位のある生き方」(13節)とある。つまり、自分がどんな生き方をしているのかを見ることだ。自分の心を神の光によって照らしていただいて初めて、それを見ることができる。闇の中を歩いていた私たちの所に、キリストは光として来てくださった(ヨハ11:9,10)。私たちを昼の者とするためだ。私たちが光なるキリストの元に行くならば、キリストは私たちを照らしてくださる(ヨハ1:9, 3:20,21)。

  1. 闇のわざを脱ぎ捨てること

キリストの元に来た者に求められるのは、「闇のわざを脱ぎ捨て」(12節)ることだ。うやむやにしないで、意志と信仰をもって、はっきりと捨て去るということだ(エペ5:8, 1テサ5:5)。闇のわざを脱ぎ捨てた者が、光の武具であるキリストを身につけることができる。武装した兵士が訓練を重ねて戦いに臨むように、私たちも神は訓練を与えて鍛え(ヘブ12:5b,6)、サタンとの戦いに臨むことのできる者としてくださる(エペ6:11,12)。このように、私たちは古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る者となりたい(エペ4:22-24)。

この世は「何を着ようかと、からだのことで心配」(ルカ12:22)させてくる。だが、私たちは何を着ても、罪の問題が解決されない限り、魂の「いのちを延ばすこと」(ルカ12:25)はできない。確実に滅びるのだ。本当に着るべきものは神が与えてくださる。キリストの救いだ。自分が神の前に罪人であり、滅びゆく存在だということに目が覚め、自分の罪を悔い改め、罪から脱して、キリストの十字架を信じるならば、私たちは、罪の解決と魂の救いをいただく。また、救われた後もなお、この世の見せる”着るもの”に目を奪われ、肉をまとい、古い人にしがみつくならば、私たちはやはり滅びる。目を覚まして、自分の肉の姿を見て、古い人を捨て去って、十字架につけるならば、キリストが内に臨み、キリストを着る者となる(ガラ5:24, 3:27)。

私たちは何を着ているだろうか。まだ闇のわざを着ていないか。自らを省みて、キリストを着る者となるよう求めていきたい。