礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.08.28

神のことばで生きる者

マタイ4:1-11

イエスは、公生涯に立たれる前に、荒野に行かなくてはならなかった。荒野での試みの記事は、マタイとルカと二つの福音書が詳しく記録しているが、どちらの福音書とも“石をパンに変えよ”という試みが最初に記されている。最初にあるということは、これが私たちの信仰の根本に関わる試みだということだ。この試みに勝てないのであれば、私たちの信仰の根本はぐらつき、後のどんな試みにも勝てない。では、この試みに勝つために、私たちが学ぶべきことは何か。

まず、ここで言われている「パン」とは何か。それは、一言で表すなら、世と肉に属するものだ。ただし、一見すると、それ自体は決して悪くはなく、むしろ、私たちの益になり、必要を満たすと思われるもの、さらには、私たちの肉体、感情、心情を楽しませ、心地よくさせ、満足感を与えるものだと言える。これらのものが全てだ、必要不可欠だ、最優先にして当然だと、この世は声高に主張する。もし、私たちがその声に耳を貸し、目を向け、心惹かれるならば、神に向けられるはずの私たちの耳は塞がれ、目は遮られ、心は逸れてしまう。私たちの霊性は、世俗化と形骸化の一途を辿り出すのだ。

次に、イエスはこの試みにどうお応えになったか。「『人はパンだけで生きるのではなく』」(4節a)とあるが、悪魔は“人はパンだけで生きる”と吹聴する。この地上で私たちは、必要な「パン」をいただく。だが、神を信じる者は、それだけで生きるのではない。この世と悪魔にそう突きつけることができるのは、「『神の口から出る一つ一つのことばで生きる』」(4節b)者だ。「神の口から出る」が鍵だ。後の試みが示す通り、悪魔も聖書のことばを使うし、御使いに変装すらしてくる(2コリ11:14)。また、聖書を勝手に解釈することにも注意が必要だ(2ペテ1:20)。私たちは、神の口から出ることばに聞いていきたい。

では、私たちはこの試みにどう応えるか。4節は、申命記8章3節からの引用だ。申命記には、出エジプトを果たし、荒野を旅するイスラエルの民に向かって、神がモーセを通じて語られたみことばが納められている。荒野で彼らは、食べ物のことで神とモーセに不平をぶつけ(出16:2,3)、神とモーセに逆らって試み(申1:26,27)、偶像礼拝の罪を犯した(申9:16)。イエスは、彼らが陥ったところをもう一度踏み直し、彼らが負けた誘惑に勝利してくださったのだ。これは十字架の勝利の先取りだった。この地上という荒野に来てくださったイエスは、罪は犯されなかったが、私たちの抱える弱さを踏み直し、私たちの罪を負って十字架と復活を成し遂げてくださった。私たちは、この十字架と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命の希望をいただくことができる。もはやこの世の「パン」を追い求めるのではなく、生ける、いのちのパンであるキリストによって生きる(ヨハ6:51, 6:35)。さらに、救われた後も内側に残る汚れ、誘惑をしかけてくる「パン」に食いついてしまう罪の性質も、十字架につけて始末するならば、キリストが内に生きてくださる(ヨハ6:55,56)。神の御心を行い(ヨハ4:34)、神のことばによって生きる者として、悪魔に立ち向かうことができる(エペ6:11)。これがパンの奥義であり、「隠されているマナ」(黙2:17)だ。

最後に、みことばはやがて必ず語れなくなり、閉ざされるときが来る。みことばの飢饉だ(アモ8:11)。私たちは、今語られているみことばを聞き、みことばに従い、神のことばによって生きる者になりたい。そして、“私は神のことばで生きている”と悪魔に宣言したい。