礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.07.03

主の前のとりなし

創世記18:16-33

アブラハムの生涯は、出発(12章)から試練の連続だったが、彼はそのたびに信仰によって乗り切った。彼の信仰が現れたのは、本章のとりなしの場面だ。

3人の人が彼を訪問した(1,2節)。主の使いだった。これは三位一体の神を表す。彼は歓迎し、主の使いとは知らずに、主に仕えるように心を尽くして接待した。御使いは再度、サラが出産する約束を彼に与えた(10節)。

御使いの来訪の目的は他にあった。それは、罪を犯し続けるソドムとゴモラを滅ぼすことだ。しかし彼らは、アブラハムの前を素通りできなかった。「我為さんとする事をアブラハムに隠すべけんや」(17節文語)と言って、彼らは神の御心を打ち明けた。

そこでアブラハムは主の前に立った(22節)。彼は、“あの町に50人の正しい者がいたら、45人、40人、30人、20人、10人いたら…”と食い下がってとりなした。「私はちりや灰にすぎませんが…」(27節)、「わが主よ。どうかお怒りにならないで…」(30節)、「あえて、わが主に申し上げます」(31節)、「わが主よ。どうかお怒りにならないで…」(32節)、という言葉から、彼のへりくだりの姿勢がうかがえる。

彼はいのちをかけて、しかもへりくだって滅びゆく町のために祈った。口先だけではなく、真に謙遜に祈った。謙遜な者が、真にとりなすことができる。なぜなら、神は心低き者に重荷をお与えになるからだ。

私たちの主イエスは、謙遜なお方だった(マタ11:28,29、ピリ2:6-8)。主が御心に従順かつ謙虚に従われたから、私たちの罪を贖われた。主は十字架の上で、私たちのために祈られた(ルカ23:34)。主が徹底して低くなって御心に従われたから、十字架の上で祈ることができたと言える。

まず自らが救いの恵みを確かに受け取ることだ。かつて自分がどういう者だったかを覚え(イザ51:1)、神がどんなに憐れんでくださったかを知りたい。神は私たちを、ご自分の宝の民としようとされたのだ(申7:6-8)。

そのために神は、贖いの供え物として御子を十字架におかけになった(1ヨハ4:10)。このようにして私たちを贖ってくださった神は、私たちを他の魂のために祈る者にしてくださる。誰よりもイエス自ら大祭司となって、神の前に出ていてくださる(ヘブ9:24)。私たちが今あるのは、主のこのとりなしがあるからだ。だから私たちも主の前に出たい。

祷告の勇者モーセを思い浮かべる(出32:30-32、詩106:23)。私たちもとりなしの祈りを捧げたい。祈りのないところにリバイバルは起こらない。

ソドムには10人の正しい者もいなかった。そのために結局滅ぼされてしまった(19章)。旧約聖書のお話ではない。私たちも悔い改めて神に立ち帰らなければ、確実に滅びる。そのような私たちのために、主は十字架にかかり、私たちが神に立ち帰る道を付けてくださった。一人も滅びないようにというのが神の御心だ(1テモ2:4、2ペテ3:9)。

この終わりの時代、滅びゆく者のために、神ににじり寄ってとりなす者とされたい。破れ口に立って神の怒りを引き返し、滅びを免れさせる者とされたい。「祈りて…命を与うべし」(1ヨハ5:16(元))。