礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.04.17

岸辺に立たれる復活の主

ヨハネ21:1-14

主を失った弟子たちは、恐れと悲嘆に囲まれていた。しかしそこへ復活の主が現われ、弟子たちは主を見て喜んだ(20:20)。恐れは平安へ、悲嘆は歓喜へと変わった。それでも彼らは、まだ信仰に立てなかった。

シモン・ペテロは漁に行くと言い出した(3節)。彼は元の職業に戻って行こうとしたのだ。明らかに信仰の後退だ。復活の主の命令に従ってガリラヤに来て主を待ったのだが、主にお会いできず、失望して元の職業に戻ろうとしたのだ。しかも、他の者たちまで彼に倣った。

彼らは久しぶりに網をとったが、不漁だった。イエス抜きの人間の努力はむなしい。彼らは信仰が地に落ち、仕事にも行き詰まった。しかし夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた(4節)。主は来ておられたのだ。主の約束は真実だった。

十字架で罪に勝ち、よみがえって死に勝たれた主、一切に勝利された主が立たれた。しかし、不信仰によって目がさえぎられていた彼らには、主だと分からない。そもそも不信仰は、主に目を留めないことから生じるが、不信仰になると一層主が見えなくなる。

しかし、主は彼らを責められず、「子どもたちよ。食べる魚がありませんね」と優しく御声をかけられた(5節)。主は、食物がないことをご存知だった。主は彼らの困窮を察知しておられた上で、あえて彼らに問われた。彼らの口から「ありません」との答えを聞くため、自らのむなしさを認めさせるためだ。救いは、罪の深さを、己れの醜い真相を、まず認めることから始まる。

多くの場合、人は認めない。開き直って見ようとしない。しかし彼らは認めた。そこから突破口が開けた。主は舟の右側に網を下ろすよう言われた。そのとおり従うと、大漁だった。ペテロはかつての同じ体験を回想したに違いない。あの時は、彼は「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と叫んだ。主の御業を見て、認罪へと導かれたのだ。彼は主から「我に従え」と言われた。忘れられない救いと献身の体験だった(ルカ5:1-11)。

いち早く主を見破ったのはヨハネだった(7節)。ペテロはとっさに、上着をまとって海へ飛び込んだ。不信仰の裸の姿を隠したい一心だったのだろう。主の前に立つとき、自分の真相が見えてくるのだ。彼は泳いで岸へ戻ったのだろう。彼は一刻も早く主の所へ行きたかったのではなかろうか。彼はやはり主を愛していたのだ。

主は岸で、ご自分が用意された魚を焼いて、彼らを待たれた。主は、不信仰の彼ら、徹夜の漁に疲れた彼らを慰め、いたわられた。

捕った魚は153匹だった。大きい魚ばかりで、網も裂けなかった。復活の主が共におられることで、これほどの祝福があるのだ。主が手ずからパンと魚を弟子たちに与えられた。彼らは食べて満腹し、魂も満足した。彼らの信仰は回復された。復活の主はあなたにも優しく語り、信仰を回復させてくださる。

このあと「汝この者共に勝りて我を愛するか」と、主はペテロを取り扱われる。主を否定し、率先して漁に戻ったペテロは、主の問いによって鋭く探られる。しかし主の取り扱いは、彼の心の傷を優しく被い、癒した。彼は不信仰から立ち直った。

イースターは、わがために死なれ、わがためによみがえられた主への信仰を確かめるときだ。十字架と復活の主が岸べに立たれる。この主にどこまでも従おう。従うためには、痛いところを通らされたり、犠牲を払ったりしなければならないこともある。しかし、私のために十字架の苦難を受けられたイエスを思い、復活して私の前に立たれる主を仰ぐなら、従う者とならせていただける。

世の終わりが近づいている。よみがえられたイエスは、再び来られる。その主にお会いできるために、私のうちに生きておられる復活の主を仰いで、信仰をもって進んで行こう。