礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.11.21

私たちを呼び寄せてくださる主

ルカ18:15-17

今日の箇所は、キリストが子どもたちを愛され、祝福される場面だ。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書にそれぞれこの場面が収められている。おそらく、キリストは各地を巡られた際、その先々で子どもたちに手を置き、祝福されたのだろう。

さて、今日の箇所から3つのことを学びたい。

  1. 子どもたちを主のもとに連れて来ること

福音書の中には、人々が誰かをキリストのもとに連れて来る場面があちこちにある。キリストのもとに連れて来られた人は、みな救いと癒しと祝福をいただいた(マタ4:24,8:16,14:35,36)。だから、今日の箇所において、子どもたちを連れて来た人々のように、私たちも誰か、特に、私たちの子どもたちや家族を、隣人を、友人を主のもとへ連れて来たい。そうすれば、必ず豊かな祝福へと導かれる。

  1. 子どものように神の国を受け入れること

神の国とは、ここでは天国ということではなく、神が支配してくださっている状態を指す。つまり、神の国を受け入れるとは、神の用意してくださっている救いに与る、ということだ。それには、子どものように、純粋で、素直で、へりくだった者にならなければならない。今日の記事の前には、祈りをささげる取税人とパリサイ人の記事(ルカ18:9-14)がある。自信と高慢に満ちた祈りをささげたパリサイ人と対照的に、取税人は自分が罪人であることを認め、罪を悔い改める祈りをささげた。また、今日の記事の後には、富める指導者と目の見えない物乞いの記事(ルカ18:18-23,35-43)がある。前者は、自分の財産を惜しみ、主のもとを立ち去った。しかし、後者は、心からの渇きと真っ直ぐな信仰を持ってキリストに救いを求めた。キリストの救いをいただくためには、へりくだって自らの罪を悔い改める心と、一途に求める飢え渇きと、純粋に信じ抜く信仰が必要なのだ。

  1. 主は私たちを呼び寄せてくださるということ

主は私たちを招いてくださる。そこには何の差別もない。ただ私たちに求められるのは、その招きに応じて主のもとに行くことだ。それは、まずキリストの救いに与ることを意味する(マタ11:28,マル2:17,ルカ5:32)。キリストの十字架と復活によって、神は私たちに対する救いの道を開いてくださった。誰にでも開かれていて、誰でも入ることのできる道だ。招きに応じて、罪を悔い改め、キリストを信じる者は誰でも、救いに与ることができる。キリストは、私たちがこの救いの道を歩み始めるように、私たちを招いておられる。

さらに、招きに応じて主のもとに行くとは、キリストに内に生きていただくことだ(使徒2:39)。明確な救いをいただいた者は必ず、自らの内に罪の根があることに気がつく。そのままでは神の国にふさわしく歩むことはできない、という現実にぶつかる。しかし、神は、聖霊を遣わし、内にキリストが生きてくださるという約束を与えてくださっている。自らの内を神に探っていただき、罪の根を放ったらかしにせず、十字架につけて始末するなら、約束通りにキリストが私たちの内側に臨んでくださる。キリストは、私たちがこの信仰に開かれるように、私たちを招いておられる。

私たちは、キリストの招きに対して、どのように応答するだろうか。子どものような純粋さと素直さとへりくだった心をもって、主のもとに行きたい。そして、豊かな祝福をいただきたい。