礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.06.20

砕かれた霊

詩篇51:1-19

今日開かれている詩篇51編の表題には、この詩篇が作られた背景として何が起こったのかが記されている。ダビデは、いつも神を信じ、神に従い、神に喜ばれた王だった。そんな彼も罪を犯した。姦淫と殺人の罪である(2サム11)。しかも、彼には自分が罪を犯したという自覚すらなかった。神は預言者ナタンを彼の元に遣わした(2サム12)。ナタンは王に例え話を用いて迫った。

ある富んでいる人が自分の客をもてなすために自分の家畜を調理するのを惜しみ、近くに住む貧しい人がたった1匹だけ大切にして育てていた羊を奪い取った、という話である。これを聞いたダビデは激しく怒った。そして、”その男は羊を四倍にして償わなければならない”と言った。ナタンはすかさず言い放った、「あなたがその男です」。王は座っていた王座から滑り落ちるようにして、自分が神の前に罪を犯したことを認めた。言い訳もせず、強情になることもなく、主の前に素直でへりくだった姿である。まさに、彼が「砕かれた霊、打たれ、砕かれた心」(17節)となった瞬間だった。神はそんな彼をすぐに赦された。神が御目を留め、憐みと恵みを注がれるのは、「砕かれた霊」である(詩34:18)。このことについて、詩篇51編から、私たちは3つの側面から教えられたい。

  1. 深い認罪から生まれる。私たちは、自分の犯してきた罪が、神に対するものだったということを知らなければならない(4)。この深い認罪から全ては始まる。「心の奥」(6節, 口語「隠れた心」)に注目したい。罪を認めようとしない、神を侮った者たちは、自分の心は誰にも知られていないと思う(イザ29:15)。しかし、神の御目の前には隠れたものなど何もない(エレ16:17)。だから、私たちは自分の心の奥に目を向け、自分が神の前に罪人であることを認めることが必要である。
  2. 明確な救いを土台としている。「ヒソプ」(7節)に注目したい。イスラエルの人々にとって、ヒソプには出エジプトの記憶を意味した(出12:22)。私たちにとっては、キリストの血による救いを意味する(1ペテ1:18,19)。この救いを明確にいただいた者は、砕かれた者として神の御前に歩もうとする。しかし、内側に残る罪の根のために、そのように歩み通せないことを思い知る。だから、主に取り扱っていただいて、さらに砕いていただく必要がある。徹底して砕かれ、罪の根を十字架に始末したところに、主が臨んでくださる(詩147:3)。「きよい心を造り、揺るがない霊を」(10節)与えて、「新しくして」(同)いただくことができる。(2コリ5:17)
  3. 主のもとに立ち返るところから導かれる。「戻す」(12節)に注目したい。明確な救いをいただき、主を信じ、従う者は、いつでも主のもとに立ち返ることができる。立ち返るということは、思い起こすということでもある。主の言葉を思い起こし、自分の立ち位置をいつでも点検することができる(エレ15:19)。また、今は主のもとから離れてしまっている者たちも、その時が来れば、主のもとに戻ってくることができる。私たちは、彼らのためにもとりなし続けたい (黙3:3)。

取税人ザアカイは、イエスに出会って、罪を悔い改めた。「四倍にして返します」(ルカ19:8)は、砕かれた彼が宣言した言葉だが、おそらく、彼はダビデの悔い改めを思い起こしたのだろう。彼の名前は”聖なる者”という意味である。おそらく、彼は敬虔な親に育てられ、幼い頃は会堂でダビデの話もたくさん聞いたのだろう。彼は自分の罪がはっきりとわかり、明確な救いをいただいた。そして、かつて聞いた御言葉を思い起こし、主のもとに立ち返った。

私たちは「砕かれた霊」となっているだろうか。自らの心の状態を省みたい。