礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.01.24

わたしの心だ

マタイ8:1-4

本日の箇所は、マルコとルカの福音書に並行記事が収められている(マコ1:40-45、ルカ5:12-16)。それぞれを読み比べると、異なる部分と同じ部分がある。

A. この人のとった行動。今日の箇所では、「みもとに来て、…ひれ伏し」(2節)とあり、王の前に出るようなへりくだった姿勢だとわかる。マルコでは「ひざまずいて懇願した」(1:41)と、心から求める姿勢、ルカでは「イエスを見ると、ひれ伏してお願いした」(5:12)と、ぐずぐずせずに行動する姿勢が現れている。イエスの前に出る者は、へりくだりと、心からの渇きと、ぐずぐずしない潔さが必要なのである。

B. イエスの対応。マタイ・マルコ・ルカ共に「手を伸ばして彼にさわり」(3節、5:13)と、“しっかり繋ぎ止める”という表現が使われ、マルコは「深くあわれみ」(1:41)と加える。“はらわたが揺れ動かされる”という意味である。御前に出ていく者を、主は深い憐れみをもって受け止めてくださり、しっかりとご自分に繋ぎ止めてくださる。

C. この人とイエスの言葉。ここは3福音書とも全く同じ言葉である。「お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2節、マコ1:40、ルカ5:12)には彼の信仰が表されている。「お心一つで」が重要である。これを受けて、イエスは「わたしの心だ。きよくなれ」(3節、マコ1:41,ルカ5:13)と言われた。彼の信仰をそのまま受け取ってくださったのである。信仰こそが主のみわざが現れるための鍵なのである(マタ9:22)。

次に見たいのは、ツァラアトについてである。当時、ツァラアトの感染者は汚れた者として扱われ、社会的・宗教的な断絶を強いられた(レビ13:45,46)。私たちにとっては、罪のために神と断絶した状態を指す。イエスは、この人に対し、祭司に体を見せて、ささげ物をすることを命じておられる(4節)。律法の規定によれば、断絶からの回復は、祭司による完治の宣言と、ささげ物が義務付けられていた(レビ14:11,20)。祭司はキリストの型である。キリストは、十字架の上で命をささげ、私たちの罪の赦しを宣言してくださった。これによって私たちは神との関係を回復していただいた(1ヨハ2:2、1ヨハ4:10)。

続いて、神の御心に対するキリストの姿勢を見たい。キリストは御心を行うために地上に来られた(ヘブ10:5-7)。地上での御生涯を通じて、①神の御心を絶えず求め(ヨハ5:30)、②神の御心を完全に悟り(ヨハ7:29)、③神の御心を忠実に行われた(ヨハ6:38)。その究極が十字架だった。十字架にかかられる前夜、キリストはゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ22:42)と祈られた。「お心一つで…」と願い出たツァラアトの人の信仰は、主のこの祈りによって完成される。主は、この人の信仰を通して、まだ先の十字架を見ておられたのではないか。キリストの姿勢はここに徹しておられた。これが私たちの模範である。

私たちも、①神の御心を絶えず求め(マタ6:10)、②神の御心を明確に悟り(ロマ12:2)、③神の御心を忠実に行う(=従う)(1ペテ4:2)者になりたい。ただし、私たちの内側に肉が残るままではできない。ツァラアトの人は、癒していただいた後、「だれにも話さないように…」(4節)と言われた主の命令には従わず、あちこちで言い広め、結果的に主の働きを妨げた(マコ1:45)。肉のままでは、神の御心を求め続けることも、最後まで悟ることも、徹底して従うこともできない。だからこそ、私たちがきよくなることが神の御心なのである(1テサ4:3a)。

主は、私たちにも「わたしの心だ。きよくなれ」と言われる。私たちも、神の御心を求め、悟り、従う者とならせていただきたい。