礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.11.01

大いなる招き

イザヤ55:1-13

聖書中に神の招きが三回ある。イザヤ55:1、ヨハネ7:37,38、黙示録22:17だ。神は私たちを、旧約時代に、イエスの時代に、そして終末に招いておられる。神はそれほどに私たちを愛しておられる。

 

1.神は誰を招かれるか

神は全人類を無差別に招かれる。イエスが語られた宴会の譬え(ルカ14:15-24)で、招かれるはずのない貧しい者まで招かれた。私たちも招かれるはずのない、霊的に金のない者だ。罪のため滅びゆく者であり、神の目に何の価値もない者だ。

また、「渇いている者はみな」だから、渇きを自覚している者、自己の欠乏、無力、罪深さ、弱さを知っている者を招かれる。イエスが語られた二人の祈りのたとえ(ルカ18:9-14)で、神が受け入れられたのは、取税人の謙虚な祈りだった。神は、渇きを覚える者なら誰でも招いてくださる(マタ11:28)。どんなベテランの馬子(まご)でも、のどが渇いていない馬を水辺に連れて行くのは困難だと言われる。渇きを覚えなければ、水のある所へは行かない。魂の渇きを持たなければ、主のもとへは行かない。

 

2.神は何のために招かれるか

1節のぶどう酒は喜び、乳は生きる力を表すから、私たちが喜びをもって生き生きと生きるようになるためだ。私たちはかつて、父祖伝来の虚しい生活を送っていた(1ペテ1:18)。原因は罪だ。私たちは、罪の中に沈み込んでいた、死んでいるのと同じ状態の者だった(エペ2:1)。しかし、神はそんな私たちに、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によって(1ペテ1:19)、救いを与えてくださった。その結果、私たちは生きる者になった(3節)。死んでいた者が生きる者になったのは、罪の赦しの結果だ。

さらに生き生きと喜びをもって生きる者になる。救われてもなお神に喜ばれない古き人、自我をキリストと共に十字架につけた魂にキリストが内住される(ガラ2:19,20)。この信仰で生きるなら、いつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝する(1テサ5:16,17,18)、豊かないのちに溢れた生活を送ることができる(2節)。

私たちの標準と、主の標準との間には差がある(8,9節)。私たちが罪の赦しだけで満足しようとしても、主がお求めになるところは、さらに深い、汚れからの聖潔(きよめ)までの全き救いだ(7節)。ただ生かされるだけではなく、豊かないのちで生かされるために(ヨハ10:10b)、主は私たちを招かれる。

 

3.私たちはどうすべきか

主を尋ね、主を呼び求めるべきだ(6節)。まず自分がどういう者か見極めねばならない。いかに罪深い者か、いかに汚れ果てた者かを直視することだ。自己の真相がわかれば、十字架のもとへ行かざるを得ない。絶望の淵(ふち)から十字架を仰げば、そこに解決がある。

信じることだ。「さあ、金を払わないで、穀物を買え」(1節)と言われている。矛盾しているようだが、真理だ。恵みは無償で与えられる。しかし支払うべきものがある。それが信仰だ。意志をもって主の前へ出、信仰をもって受け取るのだ。必ず与えられる。

先に延ばしてはならない。主に会えなくなる時が来るからだ。世の終わりは近づいている。今は恵みの時、救いの日だ(2コリ6:2)。心を頑なにせずに、すぐに信じ、従おう(ヘブ3:7,8)。悔い改めるべきところは直ちに悔い改めよう。不信仰・強情のパン種がないか点検しよう。主の前に素直に出て、砕けた魂で求めれば、主は必ず与えてくださる。