礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.10.04

まことの安息

マタイ11:28-30

このイエスの招きは、贖われた者たちヘのメッセージだ。イエスは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムという、イエスを間近に見、御言葉を身近に聞いていながら信じなかった町々の不信仰を責められた(20-24節)。民衆は訳が分からず(16,17節)、町々は拒むというように、落胆すべき材料が整っている。「そのとき」(25節)、イエスは声を上げて神を賛美された。「これらのこと」、すなわち、福音によって魂が救われてくること(ルカ10:17-20)が知者たるパリサイ人・律法学者たちに隠され、幼子のような弟子たちに現されたからだ。キリストの救いは単純に信じて従う者に明らかにされる。

イエスは私たちを招いてくださる。それは、イエスが神から全ての権威が与えられたからだ(27節)。あらゆる権威・権力がイエスに与えられた(マタ28:18)。ここにイエスの神に対する信頼と、神のイエスに対する信任を見る。イエスの従順のゆえに、神は全てを任せられた。だから、28節の御言葉があるのだ。

イエスは、私たちを招かれるのは、私たちに与えるものがあるからだ。イエスが私たちに与えてくださるのは何か。

 

1.安息、休み。重荷からの解放だ。ジョン・バンヤン著「天路歴程」に登場するクリスチャンが、重荷を下ろせたのはキリストの十字架のもとだった。罪なきお方が、私たちに代わって罰せられて、私たちを解放してくださった。罪から解放された魂に安息が与えられる。罪を認め、悔い改め、十字架を信じた者が、罪赦され、義と認められ、新しく生まれ変わるという救いが与えられる(ロマ3:24)。罪が赦され、天国の希望が与えられることが、どれほどの安息になることか(ピリ3:20、ヨハ14:1-3)。

 

2.くびき。重荷が除かれ、休みが与えられたら、腰を落ち着かせてしまうのではない。そこからイエスと共なる歩みが始まる。しかし、そのままでは歩調が合わない。だからイエスはくびきを与えてくださる。くびきは自我が砕かれなければ負うことができない。どこまでも自分を愛し、正当化し、憐れむ自我、神よりも己の都合を優先させ、己を気持ちのいい所に置き、傷つかないように、嫌な思いをしないように、損をしないように努めようとする、神に喜ばれない肉の性質を、イエスの十字架のもとに持って行って釘付けにして、己に死ぬ(ガラ5:24)。そこにキリストが聖霊となって内住してくださる(ガラ2:19,20)。

そこから真にイエスと共なる歩みが始まる。イエスが私たちに合わせなさるのではない。私たちをイエスに合う者とならせてくださるのだ。それは決してしんどい歩みではない。「わたしのくびきは負いやすく」と言われる。自分でなんとかして到達するのではなく、すでに十字架で成し遂げられた完全な贖いをもって、イエスが導いてくださるのだ。

 

3.学び。イエスと共なる歩みに入れられた者は、時々刻々、イエスの謙遜と従順を学び続ける(ピリ2:5)。キリストが内に生きてくださるのだから、私の内にキリストのかたちが日々成っていくのだ(ガラ4:19)。失敗することがあっても、主を仰いで従い続ければ、確実に成長する。

イエスが安息を与えてくださるのは、私たちをそのような魂にするためだ。イエスの招きに応える者が安息を得られる。「すべて」だから差別はない(ロマ1:16)。謙遜と渇きと信仰をもって御前に出る者は、必ず導かれる。イエスの招きに応えたい。素直にイエスのもとへ行こう。