礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.08.02

神の栄光が満ちる幕屋

出エジプト40:16-38

イスラエルの民は小羊の血によって贖われた。以来、民は過越の祭を厳守した。過越の意味は、彼らの心に深く刻印された。私たちは過越を、つまり神の小羊の贖いをどう見るだろうか。

イスラエルの歴史に、従順と不従順を見る。エジプトの王ファラオは不従順だったため裁かれたが、モーセは従順に命令に従って杖をとった。イスラエルの民は度々不従順になり、主の心を傷めたが、モーセは従順に幕屋を造り完成した。

前章で幕屋の一つ一つが完成された。主がモーセに命じられた通りだったので、モーセは祝福した(39:43)。本章で幕屋設営が完了する。「第一の月の一日(口語訳では「正月の元日」)(2節)のことだ。出エジプトして丸一年が経過したことになる。民はシナイ山麓で、およそ一年をかけて幕屋造りに専念した。それは彼らに必要な時間だった。私たちの魂の幕屋、つまり信仰が形造られるためには、時間が必要だ。即席では出来ない。

幕屋にはまずあかしの箱が設置された(3節)。そして机、燭台(4節)、香の祭壇(5節)、全焼のささげ物の祭壇(6節)、洗盤(7節)、庭(8節)が設営されていった。内から外へだ。内が大切なのだ。私たちの内に箱が設置されているか、キリストが内にいますかと御言葉は私たちに問う。

クリスチャンとはキリストの十字架の恵みにあずかった者だ。赦罪と義認がはっきりした者だ。さらには、自我の死を経てキリスト内住の恵みをいただいた者だ。これが標準であって、私たちをこの標準に至らせるのが十字架だ。そしてこれが福音だ。

すべては主がモーセに命じられたとおりに設営されていった(16-33節)。内が整えられた魂は、従順になる。キリストの内住を頂いたなら、キリストが御旨に従順であられたように(ピリ2:6-8)、私たちも従順であるはずだ。

設営が完了した幕屋に神の栄光が満ちた(34-38節)。雲は主の臨在を表す(13:21,22)。すべて命じられた通りに設営された幕屋に、主の臨在、主の栄光が満ちた。モーセが中に入ることができないほどの強い臨在だった。徹底的に従って整えられた魂には、必ず主が伴われ、主が祝福される。

イスラエルの民は、雲の動くままに行動した(36,37節)。雲が上れば、たとえ大嵐の中でも進み、雲が上らなければ、たとえ晴天続きでも留まった。神の御旨に従う神の民の美しい姿だ。そのまま私たちの姿でもありたい。

民は「いつも」(36節)そうした。従順が一時的であったり、調子が良い時だけ、気が向いた時だけであったりするのではなく、常時だった。私たちもそういう魂にされたい。いつも変わらない姿勢で従いたい。肩肘張らず、気負いもなく、淡々と従いたい。イエスのように全き従順、100%の従順をもって歩む者でありたい(ピリ2:5)。

私たちの教会も、主の栄光が満ち溢れる教会でありたい。人間的な思惑や妬みや党派心が渦巻く所ではなく、肉の思いでやっていこうとするものが横行する所でもなく、透徹した聖潔(きよめ)の信仰に貫かれた所でありたい。「みこころがなりますように」(ルカ22:42)、「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします」(詩40:8)と告白し、そのように生きる群れになりたい。群れだが、十把ひとからげではない。一人の信仰からだ。あなたが信仰に立つことから始まるのだ。

幕屋に神の栄光が満ちたことは、終末の教会の栄光の姿とも重なる。キリスト再臨の時、教会はキリストの花嫁として迎えられる。その栄光の朝を心から待ち望みたい。