礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.06.21

生ける神の子キリスト

マタイ16:13-20

イエスは弟子たちと一緒にピリポ・カイサリアに行かれた。この町はヘルモン山麓にあり、ギリシア神話のパン神が祭られている偶像礼拝の地であり、領主ヘロデ・ピリポがローマ皇帝カエサルに気に入られようと、皇帝の名を町の名前にし皇帝崇拝を行っていた所だった。

その町でイエスは弟子たちに、人々がご自分のことを誰だと言っているかと尋ねられた。彼らは口々に、バプテスマのヨハネのよみがえりだと言う人がいるとか、預言者エリヤやエレミヤの再来だと言う人がいるとか答えた。いずれも良い評判だ。イエスは多くの人に神の国のメッセージを語られ、病人を癒された。イエスの評判は広まり、人気は高まりつつあった。弟子たちの答えはそのことを反映している。

しかしイエスは、彼らの答えを聞いて満足される様子もなく、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(15節)と、質問の矛先を弟子たちに向けられた。今までご自分と寝食を共にし、従ってきた彼らが、ご自分のことを誰だと思っているかを知ろうとされたのだ。

弟子たちはイエスに見い出され、召された者たちだった。彼らは、ガリラヤ湖の漁師、取税人、武力でローマの圧政を覆そうとする活動家など、出身は様々だったが、皆、イエスの召しを受けて弟子になった者たちだった。そういう彼らが、イエスを誰だと思って従って来ているかを明確にさせることが主の目的だった。なぜなら、主はこれからユダヤの指導者たちの敵意をまともに受けて、受難の道をたどって行かなければならなかったからだ(21節)。

「あなたがたは…」と問われて、彼らはたぶん即答できなかった。人々と同じように答えるのは、弟子としてのプライドが許さない。かと言って、下手な答えを出すと主を失望させるのではないか、など、様々な思惑が頭をよぎったのではないかと想像される。彼らはまだまだプライドや面子(めんつ)の中で生きる者だったのだ。

弟子たちが顔を見合わせながら黙っていると、シモン・ペテロが口を開き、「あなたは生ける神の子キリストです」と言った(16節)。これは的確な答えだった。もともとの語順は、“キリスト、神の子、生きておられる”だ。ペテロはイエスを、まずキリストだと言った。キリストとは“油注がれた者”の意味で、救い主を表す。ペテロは、イエスこそ人々を罪から救う救い主だと言い表したのだ。次に彼は、イエスを神の子と言った。神から遣わされた御子と言ったのだ。そして彼はイエスを生きておられるお方と言った。その地にはびこっているような、何の力もない偶像ではなく、生きて働かれる神だと言ったのだ。

「あなたは生ける神の子…」とは、ペテロの信仰告白だった。イエスは彼のこの信仰告白を「あなたは幸いです」(17節)と言って喜ばれた。ただし、自分の知識や才能で告白したのではなく、父なる神が示されたのだと釘を刺された(同)。イエスに喜ばれたからと言って得意になってはいけないと戒められたのだ。

「あなたは生ける神の子キリストです」とは、私たちの信仰告白でもある。第一にイエスはキリストだ。イエスは、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを罪から贖ってくださる救い主だ。罪を認め、悔い改め、キリストの十字架を信じるなら、私たちはどんな罪からも救われる。第二にイエスは神の子だ。神と等しいお方だったが、私たちの救いのために神から遣わされ、人となってこの世に来られた神の御子だ。第三にイエスは生きて働かれる神だ。私たちの生活のただ中で実際に私たちを助けてくださる生ける神だ。

教会は、「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白の上に建てられている(18節)。その教会は、「よみの門」すなわちサタンに勝利して進むことができる(18節)。キリストを私のために十字架で贖いを成し遂げられた救い主と信じ、信仰に堅く立って、勝利しつつ進んで行こう。