礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.10.20

今日、驚くべきことを

ルカ5:17-26

イエスのもとに来て、虚しく帰った人はいない。ここに登場する人物も、イエスから祝福を頂いた。彼は中風を患い、つらい闘病生活を送っていた。しかし、友人たちはイエスの噂を聞いて、彼を寝かせたままイエスのもとに運んだ。

イエスのおられた家には、すでに大勢の群衆が詰めかけていて、イエスに近づけない。彼らは、イエスに近づく方法を探し、思いもよらない方法を見出した。彼らは病人を寝かせたまま屋上へ上がり、瓦をはいで、彼を主の前に吊り下ろしたのだ。なんと大胆な行動か。彼らは、どうしても今日、主のもとへ連れて行きたいと願ったのだ。とにかく連れて行けば、あとは主が癒してくださると信じたのだ。これが彼らの信仰だった。

主は病人に「…あなたの罪は赦された」と言われた。この言葉に人々は驚嘆した。それは第一に、神を汚す言葉に思えたからだ。律法学者たちは心の中でつぶやいた。主はその心をすぐに見抜かれた。主の前に隠れているものは何もない(詩139:1-4)。

イエスこそ罪を赦す権威を持っておられるお方だ(24節)。なぜなら、神から遣わされた神の子だからであり、十字架にかかってくださったからだ。罪なき神の子イエスが、我らの身代わりに十字架にかかられた。我らは罪を悔い改め、十字架を信じるなら、罪からの救いが与えられる。罪が赦され、神に義と認められ(神に受け入れられ)、神との関係が回復され、神の子どもとして新しく生まれ変わる救いを頂けるのだ。

第二に、癒しを求めて来たのに、罪の赦しを言い渡されたからだ。イエスは、中風の男の悩みの根源をご存じだった。体の病気ではなく、魂の病、つまり罪の問題が根底にあることを知っておられた。

罪の問題から死の問題が生じる。人はみな死を恐れる(ヘブ9:27)。罪が解決していないからだ。イエスは、罪と死という人間の本質的な問題に解決をつけられた。十字架により罪が赦されたら、永遠のいのち、天国の希望を持つことができる。赦しの恵み、平安、確信は、神の御前に顔を上げて出られるところから与えられる。中風の男はこの救いを頂いたのだ。

病が癒されて万事解決ではなく、彼は罪の赦しを頂いた。そこに真の解決があった。イエスはすべて罪の重荷を負う我らを招いておられる(マタ11:28)。彼が求めていたのは平安だった。その平安を、彼は罪赦されてイエスから頂いたのだ。真の平安は罪の問題の解決から来る。

人は誰でも神の前に罪人だ。罪のない人間は一人もいない(ロマ3:10)。だからイエスが十字架にかかられた。罪を認め、悔い改め、十字架を信じて罪の赦しを頂こう。イエスがもたらしてくださったのは、罪の赦しの福音だ。ただ信じるだけで、どんな罪人でも救われる。だから福音だ(ロマ3:24)。

イエスは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」と言われた。まず自分が病人であることを認め、次に、悔い改めと信仰をもって医者たるイエスのもとへ行くのだ。真の医者イエスは、我らを癒すために来られ、十字架で血を流されたのだ。罪を赦す権威のあるイエスのもとへ行こう。必要なことは、信じ、委ねてイエスのもとに行くことだ(ロマ3:25)。

中風の男は罪が赦され、病も癒やされた(24,25節)。人々は驚嘆し、「私たちは今日、驚くべきことを見た」(26節)と言った。彼が、体の癒しばかりでなく罪の赦しまで頂いた、それほど驚くべきことだったのだ。

我らも驚くべきことを見たい。罪の赦しの救いのみわざを、そして救われた我らを通して多くの魂が神に立ち帰るリバイバルのみわざを見たい。“今日みわざを見させてください”と求めていこう。主は十字架で贖いを完成された。あとはこちらが信仰をもって受け取るだけだ(ヘブ11:6)。主を信じて御前に出て行こう。