礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.10.13

神のイスラエル

ガラテヤ6:1-18

今日のメッセージの中心聖句は「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」という15節だ。それに続いてパウロは、「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」と言う。「神のイスラエル」と聞いた時、何をイメージするだろうか。

イスラエルと言っても、国家のことではない。神が愛してやまない選びの民のことだ。それも、イスラエル民族のことだけではない。キリストの十字架によって贖われた我らのことだ。

我ら人間は、神のかたちに、すなわち神との豊かな交わりの中に生きる者として創造された。しかし、我らは罪を犯し、神から離れ、神に背を向けて生きる者となった。そのような我らを、なおも神は愛され、我らのために御子キリストを世に送られ、十字架におかけになった(ロマ5:8)。我らは、自分の罪を認め、神の前に悔い改め、十字架が自分のためだったと信じる信仰によって救われる。それはただ神の恵みによるものだ(エペ2:8)。

この救いをいただいた我らは、新しく創造された者だ。しかし、真に新しくなったかと問われると、確信をもってハイと言えない。古い性質が残っているからだ。

たとえば、互いに愛し合うべきことは聖書の教えであることは知っている(ヨハ13:34、1ペテ1:22、4:8)。けれども、現実は心の底から愛することができない。なぜか。肉だからだ。所詮そんなものと開き直ったとしても、それでは肉のままであり、平安も喜びも勝利もない。明確に救われた魂は、肉のままでは満足できないはずだ。

イエスは十字架上で「完了した」と言って贖いを完成された。主は我らを、肉のままで放置しておくような、中途半端な救い方をされない。「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に…」(14節)。十字架に付けられたのはキリストだ。しかしそこに自分も一緒につけられている。その信仰に立った魂に聖霊が臨まれる。キリストが内住されるのだ。

古き人が取り壊され、根本的に新しい人に造り変えられる。新しい人に造り変えられるとは、新しい人を着るということであり、新しい人を着るためには、古い人を脱ぎ捨てなければならない(コロ3:9,10)。十字架において、真に愛せないという古い自分に死んで、キリストに内に生きていただくという信仰で生きる者となる。これがパウロの言う「新しい創造」、十字架と聖霊による新創造であり、この恵みの内に歩むのが「神のイスラエル」だ。

魂が新しく創造されること、キリストを着ること、キリストが内に住んでキリストのようになることが大切だ。キリストのようにとは、父なる神を愛し、どのような人をも愛し通されたキリストの心を持つ者とされることだ。それは十字架を信じる信仰によって与えられる。この十字架の恵みを知ってこそ、真に十字架を誇ることができる。

信仰による全き救いをいただいて、神のイスラエルとしていただきたい。