礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.10.07

主のご要求にお応えして

申命記10:12-22

イスラエルの民はモーセを通して、神から二度にわたって十戒が与えられた(1,10節)。本書は、ホレブ山で与えられた律法とは別のものだ(29:1)。出エジプトした民は、モーセによって、ホレブ山で十戒(律法)が与えられたが、不信仰になり、神に背いて偶像礼拝の罪を犯した。石の板は砕かれ、十戒は反故(ほご)になったかのように見えた。しかし真実な神は、一度示された御心を必ず実現される。二度目の十戒を与えられたのだ。

それは、彼らを縛るためではなく、律法なしでは生きていけない彼らを生かすためだった。律法とは、命令・禁止の様々な規定ではなく、神の御心だ。主は格別イスラエルを愛し、律法を与えて御旨に沿う歩みをさせようとされた。イスラエルの民が選ばれたのは、主の一方的な恵みだった(7:6-8)。

その民に、主が期待されることがあった(12節)。主は我らに対するご要求をお持ちだ。それは、「ただ」とあるように難しい事ではなく、誰にでも応え得るご要求だ。主を恐れ、主の道に歩むこと。主を愛し、心を尽くして主に仕えること。一言で言うなら、主の御言葉に従うことだ(13節)。

神の目的は、キリストの十字架で贖われた我らが幸せになることだ(13節、エレ29:11)。その幸せは、主の御言葉に従うことによって得られる。そのためには、硬いところが砕かれ、聞き従いやすい、柔らかい魂にならなければならない。つまり、心に割礼を受けることだ(16節)。 割礼は神との契約のしるしだった。全能の神としてご自身をアブラハムに現された時、契約のしるしとして割礼を受けることが命じられた(創17:10)。割礼を受けていることは、確かに神との契約に入れられたという証しだった。

割礼のない者とは、神との契約に入れられていない者、神との関係が本来の状態ではない者ということになる。それは、①強情な心。聞こうとしない硬い心、自分はこれでよいとする心だ。②不信仰。贖いが自分のためであること、自分も新しくされ得ることが信じられないのだ。③不従順。口先だけで実際に従わない心、本当は従いたくない自己中心のかたまりの心だ。④怠慢。厳しいところに自分を置きたくない、低きに安んじたい心だ。

これらは肉の心、自我に凝り固まっている心の状態だ。神はそんな心に割礼を施される。自我を切り取って新しくし給う。神に喜ばれない古き人を十字架につけ、キリストの内住をいただいて、聖(きよ)くされることができる。

主は我らに、割礼された心、内にキリストをいただいた心になることを求め給う。あれもこれもではない。ただこの一事だ(詩27:4、ルカ10:42、ピリ3:13)。我らの側で努めるべき一事は、主の側の我らへのご要求でもある。

心に割礼された魂は、(a)主を恐れる。神への敬虔だ。足から靴を脱いで、全てを主に明け渡すのだ(ヨシ5:15)。(b)主の道に歩む。絶えず主を求める(マタ6:33)。(c)主を愛する。我を愛しわがために己が身を捨て給いし主を、何ものにもまさって愛する(ヨハ14:21)。(d)主に仕える。主にだけ仕えるのだ(ヨハ12:26)。(e)主の命令と定めとを守る。真に従うとは、進んで、喜んで、信仰をもって、また無条件に御言葉に従うのだ。

肉の割礼を受けているか否かは問題ではない(ガラ6:15)。心に割礼が施されたかどうかだ。これなしに我らが新しくされることはない。主が求め給うこの一事を、わが内に為し給えと求めよう。