礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.12.24

世に現された最高の愛

ヨハネ3:16-21

ヨハネ3章16節と言えば、あまりにも有名な御言葉だ。本当の愛とはどういうものかが表現されている。

人類の思想史に、アガペーとエロースという2種類の愛があった。キリストの弟子たちは、キリストの生涯を見ながら、その中に真実な愛を見出した。それは、従来の愛という言葉であるエロースでは聖書に記録できないもので、間違って理解され伝達されては困ると思った彼らは、アガペーという言葉を作った。

両者の違いは、愛する相手から奪い尽くすか、相手に与え尽くすかだ。キリストの愛は惜しみなく与え尽くす愛だ。主は多くの愛のメッセージを語られたが、何よりも真の愛を身をもって示された。

主は我らのために十字架にかかり、我らに命を与え尽くされた(1ヨハ3:16)。真の愛とは、愛する人のために死ねることだ。死ぬとは、逆に生きることだ。相手のために、相手を幸せにするために、最後の一息まで命を注いで生きることだ。

人間の愛は、結局は自分に向かう愛、自己中心な愛、惜しみなく奪う愛だ。それがエロースの愛だ。純粋な親の愛でさえ、憎しみに変わることがある。アガペーとエロースは、なぜこうも違うか。エロースは、神から離れ、神の栄光を失った人間の愛であり、アガペーは、そんな人間をなお愛し、御子を惜しみなく与えるほどの神の愛だからだ。

神は、その独り子を下さってしまったほど世を愛された。しかも、与えた独り子が、呪われた蛇のように十字架にさらし物にされるのを見越して、神は御子を与え給うたのだ(14節)。

神はこれを断行された。そこには父としての痛みがあった。「世」とは我ら人間のことだ。神によって神のかたちに創造された人間は、神と交わることができる存在だったのに、神の命に背いて罪を犯し、神のかたちは破壊され、神に敵対する存在になった。神に背いた我らの結末は滅びだ(ロマ6:23)。そんな我らを、神は愛し給うた。エロースは愛する価値のあるもの、愛して報いが返ってくるものを愛する愛だが、神は、愛されるに値しない我らを、独り子を賜うほどに愛し給うた。

キリストは我らの罪のために十字架にかかって死なれた。その死によって、滅ぶはずの我らが生きるためだった。これこそ最高の愛だ(ヨハ15:13)。「永遠のいのちを持つため」とあるように、キリストの死は、我らが真に人間らしく生きるためだ。神に顔を向けて生きるのが、神に創造された人間の生き方だ。

どうすればそういう生き方ができるか。キリストを信じることだ。罪を悔い改め、十字架を信じれば、赦罪の恵みが与えられる。罪が解決したら、死も解決する。罪と死の問題が解決すれば、すべてが解決してくる。

父の犠牲と独り子の犠牲により、我ら全ての者の贖いは成し遂げられた。信じる者は一人も滅びずに、永遠のいのちを得る道が開かれた。しかも、永遠の贖いだ。罪の赦しのみか、汚れからの聖潔まで含む救いだ。これを与えるために御子は世に来られた。

神の全き救いの計画は、すでに十字架の上に成就している。今や神の重荷は、この完成された贖いが我ら一人一人に届くことだ。我らがこれを信じ受け入れ、恵みに与って欲しいと神は願い給う。

神はあなたを最高の愛をもって愛し給う。史上最高の愛を、遠慮なく受け取らせていただこう。