礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.07.16

魂の開眼

エペソ1:15-23

パウロの祈りが記されている。我らが神の奥義を知るための祈祷だ。神の奥義とは、①天上での神の会議(3節)。②永遠の選び(4節)。③神の子たる身分(5節)。すべて我らのための奥義で、必ず我らのものになる。その裏付けが血による贖い、罪の赦しであり(7節)、その保証・手付け金が聖霊の証印だ(13節)。この救いを我らに与えるのが神の計画だ。

パウロの祈りは、この奥義を知るようにというものだ。彼は我らの眼が開かれるようにと祈る。眼が開かれたら何が見えるか。

1.望み。「神の召しによって与えられる望み」(18節)。我らは世から召された。キリストの血による贖いによって、天の処で恵まれ、選ばれ、神の子と定められるように召された。召された我らは、やがて栄光の姿に変えられて主に迎えられる。この望みが見える。

2.神の国。「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」(18節)。我らは神の財産の相続人だ。朽ちず汚れず消えゆかない天の資産を相続する者だ(1ペテ1:4)。神は我らの受け継ぐべき分、嗣業であると同時に我らが主の嗣業、所有となる。主の血で贖われた我らを、神は宝とみなし給う。

3.神の大能。「また、神の全能の力の働きによって…」(19節)。信じる我らに対して行い給う神の力(元訳)とは何か。20,21節に主の復活、昇天、ご即位が述べられている。主を復活させ、昇天させ、即位させた神の力が信じる我らの内に働き、我らの内に同じ復活-昇天-ご即位の御業がなされる。神の大能によって、我が内の自我が磔殺され、よみがえりのキリストが生き、神の座の右にまで引き上げられる。つまり内住のキリストの恵みだ(2:6)。小島伊助師は、キリストになされた御業は例話で、本論は我らの内になされる事だと言われた。イエスになされた御業がわが内にもなされるのだ。なんという救いか。ただ、我らが信じて従うかどうかだ。

ここまでの救いを悟ってほしい、というのがパウロの祈りであり、主の願いだ。悟るとは理解するだけではない。我が願いとなれということだ。願うとは渇くことだ。結局、渇きの問題になる。

自己の姿が分からなければ渇かない。己がどういう姿をしているかを、御言葉の鏡の前に立って分からせられねばならない。見かけは問題なくても、内側はどうかだ。「白く塗った墓のようなもの」(マタ23:27)であってはならない。

キリストの血は魂の汚れを潔める。古き人を十字架につけ、信仰によってキリストを内にお宿しし、全く神のものになりたい。我らは潔められ得る。これは御言葉の約束だ。絶大な神の力がなすことだ。我らがなすべきは、求めること、信じること、従うことだ。聖霊は求める者に(ルカ11:13)、信じる者に(ヨハ7:39)、従う者に(使徒5:32)与えられる。

聖霊が与えられたら、我らは全面的に主に信頼する者になる。いつでも、どこでも、どんな事でも御心に喜んで従う者になる。標準は高いが、約束だ。ただ信じて、我が内に神の大能が働くように求めよう。

主イエスに対する信仰と聖徒に対する愛(15節)は、クリスチャン生活の全てだ。まず主イエスに対する信仰、キリストの十字架と復活に対する信仰、そして、聖徒に対する愛だ。これは教会の姿だ。

パウロの祈りの対象は、我らの主イエス・キリストの神、栄光の父であり(17節)、祈りの内容は、知恵と啓示の御霊によって神を知ることができることだ(同)。こうしてクリスチャンは成長する(8,9節)

魂の開眼が与えられて、神の奥義を知る者になりたい。そのためには、謙遜と渇きと信仰もっていつも主の前に出ていきたい。