礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.07.09

神の栄光が満ちる幕屋

出エジプト40:16-38

イスラエルの民は小羊の血によって贖われた。以来、民は過越の祭を厳守した。過越の意味は、彼らの心に深く刻印された。我らは過越を、つまり神の小羊の贖いをどう見るだろうか。


イスラエルの歴史に、従順と不従順を見る。パロは不従順だったため裁かれたが、モーセは従順に命令に従って杖をとった。イスラエルの民は度々不従順になり、主の心を傷めたが、モーセは従順に幕屋を造り完成した。


前章で幕屋の一つ一つが完成された。主がモーセに命じられた通りだったので、モーセは祝福した(39:43)。本章で幕屋設営が完了する。「第一の月の一日(口語訳では「正月の元日」)(2節)のことだ。出エジプトして丸一年が経過したことになる。民はシナイ山麓で、およそ一年をかけて幕屋造りに専念した。長いが、必要な時間だった。我らの幕屋が形造られるためには、時間が必要だ。即席では出来ない。


まずあかしの箱が設置された(3節)。そして机、燭台が(4節)、香の祭壇が(5節)、燔祭の祭壇が(6節)、洗盤が(7節)、庭が(8節)設営されていった。内から外へだ。内が大切なのだ。我らの内に箱が設置されているか。キリストが内にいますか。


クリスチャンとはキリストの十字架の恵みにあずかった者だ。赦罪と義認がはっきりした者だ。さらには、自我の磔殺とキリストの内住の恵みをいただいた者だ。これが標準であって、我らをこの標準に至らせるのが十字架だ。そしてこれが福音だ。


すべては主がモーセに命じられたとおりに設営されていった(16-33節)。内が整えられた魂は、従順になる。キリストの内住を得て従順でない魂はない。キリストが御旨に従順であられたのだから(ピリ2:6-8)、我らも従順であるはずだ。


設営が完了した幕屋に神の栄光が満ちた(34-38節)。雲は主の臨在を表す(13:21,22)。すべて命じられた通りに設営された幕屋に、主の臨在、主の栄光が満ちた。モーセが奉仕できないほどの強い臨在だった。徹底的に従って整えられた魂には、必ず主が伴い給う。主が祝し給う。


イスラエルの民は、雲の動くままに行動した(36,37節)。雲が上れば、たとえ大嵐の中でも進み、雲が上らなければ、たとえ晴天続きでも留まった。神の御旨に従う神の民の美しい姿だ。そのまま我らの姿でもありたい。


民は「いつも」(36,38節)そうした。従順が一時的であったり、調子が良い時だけ、気が向いた時だけであったりするのではなく、常時だった。我らもそういう魂にされたい。いつも変わらない姿勢で従いたい。肩肘張らず、気負いもなく、淡々と従いたい。イエスのように全き従順、100%の従順をもって歩む者でありたい(ピリ2:5)。


我らの教会も、主の栄光が満ち溢れる教会でありたい。人間的な思惑や妬みや党派心が渦巻く所ではなく、我策肉策が横行する所でもなく、透徹した聖潔の信仰に貫かれた所でありたい。「聖意(みこころ)の成らんことを…」(ルカ22:42文)、「わが神よ、われ聖意に従う事を楽しむ…」(詩40:8文)と告白し、そのように生きる群れになりたい。群れだが十把ひとからげではない。一人の信仰からだ。あなたが恵みを求めていくこと、あなたが信仰に立つことから始まるのだ。


サタンは自分に残された時の短いのを知っているから(黙12:12)、神の栄光が満ちる教会にさせまいと、なりふり構わず必死に働いて来る。時を見据え、聖霊に依り頼みつつ、戦いに勝利して前進していこう。