礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.01.22

全き献身

レビ1:1~17

本書は、解釈するのに難解と言われるが、新約の光で読んで初めて意味が分かる深い書だ。神に造られた者がキリストによって救われたら、聖くなりたいと願う。我らがいかにして潔められて神に近づくことができるか、またどういう者が聖い者であるかを、この書によって学ぶことができる。

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記というモーセ五書の、特に初めの三書には、三位一体の神の働きが表されている。創世記には創造の神、父なる神の働きが、神の救いの物語である出エジプト記には、子なるキリストの働きが、レビ記には聖霊なる神の働きが表されている。

主はモーセを呼び、会見の幕屋から語られた(1節)。完成した神の幕屋に主の栄光が満ちた(出40:34,35)。その幕屋の中から主が呼ばれた。かつてモーセはシナイ山の上で律法を受けたが、今や幕屋の中から主の声を聞く。キリストの十字架以後は、我らが主の声を聞くために、もはや律法によって神に近づこうとしなくてもよい。十字架に自我が磔殺された魂に、キリストが内住し給う。主は我らの内に住み、内から語り給う。

本書に五つの犠牲が記されている。全焼のいけにえ(口語訳で燔祭(はんさい))(1章)、穀物のささげ物(素祭(そさい))(2章)、和解のいけにえ(酬恩祭(しゅうおんさい))(3章)、罪のためのいけにえ(罪祭(ざいさい))(4章)、罪過のためのいけにえ(愆祭(けんさい))(5章)だ。それぞれキリストの贖いと我らの魂に深い関係がある。

全焼のいけにえは、人が全身全霊を献げ、彼自身が神の所有となる献げ物だ。犠牲の動物が壇の上に載せられ、焼かれて煙となって昇り、神への香ばしい薫香(くんこう)になる。火で焼き尽くされた献げ物、すなわち聖霊の火の通った魂を神は受け入れ給う。

用いられる犠牲は、牛、羊、鳩といった身近な禽獣(きんじゅう)で、あばれて手に負えない猛禽(もうきん)ではなかった。神に受け入れられる魂は、従順に壇上に上る魂だ。いかに貧しい者であっても、鳩は献げることができた。主は公平なお方だ。信仰年限の長短ではなく、十字架を仰いで信仰に立つなら、誰でも主に喜ばれる犠牲になることができる。

正しく献げるなら、神は受け入れ給う。正しく献げるとは、悔い改めを繰り返したり、自分の情け無さを嘆くことではない。①過去の罪の精算は既に終わっていること(ロマ4:25,5:1)。②内なる肉を謙虚に認め(ガラ5:19-21)、信仰をもってキリストと共に十字架に釘付けること(同5:24)。③そして信仰によってキリストの内住の恵みをいただくことだ(同2:20)。これが全き献身だ。主に喜んでいただく者となるために、こういう全焼のいけにえを献げる献身者となりたい(ロマ12:1)。

全焼のいけにえが献げられた後、壇の上には灰だけが残る。灰は意志を持たず、風の吹くままに飛ばされる。全き献身の生涯とは灰の生涯だ。自分の思いではなく御心のままに生きる魂となりたい(詩40:8)。十字架の贖いは、我らをここまでする。贖われ甲斐のある者になりたい。